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志摩の郷(嶋)八嶋野

 現在の国道四十一号線五本榎交差点の付近であると伝わる。
 古くからの地名で、時代によって「シマ」の音に「嶋」「志摩」「志麻」など色々と漢字が当ててあるが、始めは「嶋」の一文字であったところ、和銅6年に國郡郷里の名を二文字にする定めにより「志摩」「志麻」などと書くようになったという。
 向新庄の氏神神社は明治42年、白山社と神明社を合祀するときに総社号として郷名からとって「志麻神社」と改称し今日に至る。

島村と新庄

  島村と新庄の関係はどのような関係があるのであろうか。先ずは新庄の地名は昔は「新荘」と書かれていた土地である。つまり「新しい荘園」の地であることから地名として定着したと仮定して考えた場合、新に対して旧なるもの、元になるものが必ず存在するはずである。

 新庄の場合、島村が元なる場所ではないか、という考察が「新庄町史」(昭和50年新庄校下自治振興会)に掲載されてる。要約すると、「島村(もとは志麻郷)は富山市大島という地名として名残を残している。島村の歴史はかなり古く平安初期(935頃)の書である「倭名類聚抄(わめいるいじゅうしょう)」に記載される新川十郷のひとつである。
 その当時に島村にはかなりの人々が住んだ集落がいくつかあったことがわかる。河の近くで水が引きやすく、洪水で自然に出来た農耕地は肥沃で稲作には絶好の地ではあったであろうが、志麻郷の人々は幾度となく河の氾濫、洪水による直接被害はもとより、災害による耕作地の荒廃を復旧させたとしてもいつ何時また起きるかわからない天災を思えば定住の農耕地とは成り得ない。
 これを定住可能な農耕地とするためには治水が必要なのだが、当然のことながら当時の住民にはもちろん、為政者ですらこの暴れ川を治水する技すべは無かった。治水能力が多少なりついたのは戦国時代の終わり、佐々成政の時代以降のことである。必然的に農民たちは定住できる代替え地を求めなければならなかった。

 当時の常願寺川はその流れの荒々しさから荒川、又は洪水の事にその川筋を変えることから新川と呼ばれたらしいが、今日とは比較にならないほど落差が大きく洪水時には巨石が押し流されてきたので本流になったところは玉石原で耕作出来るわけが無く、低地や窪地で泥水がたくわえられたところはやがて沈殿して泥土(でいど)の層が出来る。
 明治、大正時代に入ってからも「常願寺の泥の入ったところに不作はない」といわれたぐらいでこの沈殿槽がそのまま肥沃な耕作地になり、志麻郷の被災農民はここに代替え地を求めた。

 「荘園」とは一般的には貴族や社寺の私有地で租税対象外の田園のことであるが、被災民が新規に開墾するに当たりある期間は祖免された行政上の土地としての「新荘」であり、これがやがて地名として固定した物と推定している。