06a 06b

鎮 座 地
富山市一本木103番地 一本木自治公民館横 常願寺川付近
氏子町内会
一本木町内
祭   神
建御名方命 天照大御神
主神 建御名方命(たてみなかたのみこと)諏訪社
合祀 天照大御神(あまてらすおおみかみ)神明社
祭   日
春祭 4月11日
秋祭 10月30日
由緒沿革

(境内石碑由緒書より抜粋)
越中国新川郡島郷一本木池沼割に文政12年(1829)7月26日勧請と伝わる。願主・弐右衞門、神主・舩木豊後守物部宿禰信應
(社地)昭和16年11月、中新川郡白岩村の社殿を移築する。このとき神明社を合祀した。翌年には鳥居、狛犬一対、社標一基が奉納された。昭和23年換地配当及び農地改革のため一本木103番地となる。昭和29年3月神殿増築し社殿に併設された。
平成6年10月祭旗と祭旗掲揚柱が町内会、村、児童会有志36名により奉納された。
 港町に分霊社が多く、長野県の諏訪大社の御祭神として有名である。

一本木村と町の沿革

村の起源 天平宝字3年(758)頃より開拓開墾が始まり今より約350年前の正保年間(1644~1648)に至り一村を成したものと推定される。古記録 正保3年8月(1646)古文書の越中国四群高付帳にその村名と収穫高の記録が見られる。安政五年 大地震と洪水の被害を受け、翌年分村の悲劇に見舞われ、安政六年引越一本木村の記録が見られる。 昭和五十九年、五十四戸・四班編制の新町内会に発展、この年公民館建つ。
平成九年四月 七十六戸 五班編制の町内に発展、他に二十七の事務所あり。

藤ノ木郷土史(藤ノ木校下自治振興会)より抜粋

 一本木は常願寺川左岸に沿って南は向新庄に接し、北は中ノ新に至り、西は中川を経て手屋村に至る。南北に細長く常願寺川にへばりつくような地形の集落である(南北約千五百米)
 新庄町史によると、「島村(もと志麻郷)は富山市大島として残って居る。島村の歴史ほかなり古い。平安朝初期につくられた『倭名類聚抄』 に記されて居る新川十郷の一つである。
 「新庄町史」によると、「島村は平安朝初期にはすでにかなりの人々が住んだ大きい集落がいくつかあったことが知られる」とあり、その集落の一つが一本木であろうと思われる。
 村には一寺一社があり一寺は報光寺、一社は諏訪社である。
「新庄町史」によると、島から新庄が出来たと記されてあり、それは常願寺川の変遷が大きく影響し、奈良朝から平安の初期にかけて神通川の支流であった常願寺川は次第に向を東に変えて移動し、鎌倉時代には中新庄附近を通って海に注ぐ独立河川となり、度重なる氾濫をまともにうけた志麻郷(島)の人々は、その直接被害はもとより農地の荒廃は農民の生活を脅し、その為に代替地を求めた事も当然と言えよう。

角川文庫『地名大辞典』に記された引越一本木について

 「江戸期~明治22年の村名新川郡高野郷のうち加賀藩領。正式には引越一本木と称した。当村一帯は高原野の原野であったが安政五年の大地震及び常願寺川大洪水の結果期せずして沃野となりしところに常願寺川左岸島郷に在所して被災した一本木村の住民が翌六年、藩の奨励により当地に移住開村引越について加賀藩より一戸につき玄米三石銀三〇〇匁及被災前の村高相当の土地が支給された。現在の常願寺川の姿態(堤防の形)を見ると一本木地先で大きく左岸に湾曲し川巾の3分の2は旧の一本木の土地であったと古老から聞かされた。その3分の2の不足分が引越一本木に支給されたものと言えよう。安政五年の大地震及大洪水によって一本木の住民は大きく二分されて引越一本木とに別れた。現在、新庄町の村井義英、四ツ屋の寺島敬一、向新庄の戸山正之氏等も各々一本木より出た方々であり、報光寺の門徒である。
大正四年を最後に左岸に洪水もなく、河川の管理は県より内務省へ更に建設省に移管され、年を追って常願寺川に対する工事は完全な装備と共に強化されて河底も低くなり、堤防も増強されて面目も一新し、洪水に対し万全を期して居ることは何よりも心強い。
 村と常願寺川。常願寺川と一本木その絆は深い。何れを語るにしても相対的に切り離して語ることは出来ない。

ページトップへ