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鎮 座 地
富山市大町32番地字北浦割
氏子町内会
大町1区南部、中部、西部、北部、二区、南台
祭   神
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
大山咋命(おおやまくいのみこと)
譽田別命(ほんだわけのみこと)
祭   日
春祭 4月10日
山王祭 6月2日
秋祭 11月3日
由緒沿革

 この大町の地は富山城下より布市・福沢道と飛騨街道合流の宿場町として栄え、神保氏政下、医師以下四十四種の諸芸 諸職が繁昌 軽物を商う唐人座などが当地にあったという。
 大町の総社としての神明宮が当地に鎮座。又、字道荿割二百四番地に末社日枝社(大山咋命)が、字立山割四番地に末社八幡社(譽田別命)が鎮座になっていたが、明治四十二年八月二十六日に三社合祀と大町神社に改称の許可を得て同年九月十日合祀祭を執行した。
 又官制時代には指定村社として当時の上新川郡堀川村長、昭和六年堀川町になるや堀川町長、昭和十七年富山市に編入するや富山市長が春・秋の例祭 新嘗祭の三大祭に衣冠の正装で参拝したが これは昭和二十年の終戦まで続いた。
 昭和三十七年十月に現御本殿を造営 遷宮祭を執行
 同四十七年十月に現拝殿を造営 慶賀祭を執行した
(大町神社 総代 平井善昭)

御祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)について

 わが国の神話である古事記・日本書紀に記されている女神様で伊勢神宮の御祭神であり天皇家の祖先神として、古くから八百万の神たちのなかでも国民信仰の最上位におかれてきた神様であります。アマテラススメオオミカミ、オオヒルメノミコト、ヒノカミ、など神格に対する尊敬の気持ちを表現するためたくさんの御神名をお持ちの神様であられます。
 この出生の神話については『古事記』では黄泉国からのがれてきたイザナギノミコトが筑紫(九州)の日向(宮崎)の橘の小門の阿波岐原で禊ぎ祓えをされて身の穢れをおはらいになった。この阿波岐原で黄泉国の穢れを見た左の目をお洗いになった時に生れた神がアマテラスオオカミであると記されている。
 天照大御神は、神の世界である高天原にいて孫のニニギノミコトを大八州(日本)の主として、高天原から降し治めさせられました。これがいわゆる天孫降臨であります。この時、国民が主食とする為に、高天原の稲穂と共に、天照大御神の形見としてあたえられました八咫鏡が御霊代(御神体)として宮中に奉安されたが、崇神天皇のとき大和国笠縫村(奈良県磯城郡)にうつし、かわりにその模造鏡を宮中に残されました。そこが賢所であります。
 次代垂仁天皇の25年3月笠縫村の神鏡を伊勢国五十鈴川のほとりにうつして祭ったのが伊勢神官の内宮であり、ヤマトヒメノミコトを斎宮(いつきのみや:天皇陛下の御代理)としてご奉仕されました。
 元の神明宮の「神明」とは伊勢神宮のことである。中世期末から近世期にかけて伊勢神宮はわが国で最も尊い神社とされ、それにあやかり新しく開拓された村々に鎮守としてお祭りをするようになった。我が富山県内に神明社が多くあるのは、農耕民族において最も尊い存在である太陽を司る神であり、稲作をして民の主食として国づくりを教え諭した祖神として崇敬されてきた証であります。
 歴代天皇陛下は天照大御神のご子孫として国を治め、御自らも天照大御神をはじめとする八百万の神達をお祭する祭祀王として国民の安泰を常に願っておられるのです。我々日本人が神棚に必ず伊勢神宮の御神札であります神宮大麻と、氏神・鎮守神社の御神札をお祭する理由もここにあるのです。

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