富山市舟渡(旧大沢野町)素盞鳴社 由緒書

25a 25b 25c

鎮 座 地
富山市(旧大沢野町)舟渡822
氏子町内会
舟渡
祭   神
素盞鳴尊
祭   日
春祭 4月6日
秋祭 10月6日
由緒沿革

(「郷土研究 大沢野町 ふるさと下夕南部:野菊の会編」より要約)
 山本外治氏が中村菊次郎爺さんに聞いている事では、尾萩野の別宮(わかみや)から別れて現在地に祀られてから約千年ぐらい、平安中期で一條天皇の御代の事だという。祀られた場所は部落の高台で眺めも良く、鬱蒼とした森で荘厳さがあったからであろう。社名は八坂社で御神体は石像であると伝わり、御祭神は素盞鳴尊である。拝殿前の石灯籠は寛延4年(1751)の奉納(安右衛門・清吉)、参道の石段は明治12年(1879)に作られた物。下は4段、中は37段、上は4段で45段あり、地元の人の中には「しじゅうごきげんよく、みんな仲良く暮らせるように」との祈りながら長い階段を登るという。現在の本殿・拝殿は明治24年頃に飛騨の但馬という飛騨・越中までも名の通った腕利きの大工が建てた物。お宮の後ろに大変立派な大欅があり、その一本で本殿を造ったという。この地方で但馬大工の弟子になった小糸の野口国義さん、西猪谷の早瀬仙太郎さん、増田定次郎さん、小坂勝次郎さん達は皆腕利きの立派な大工さんになった。大正3年の水害の時、宮の下の広場が砂で大分埋まったことや、今度お宮を建て替えるときは拝殿の前庭が大変狭いので約二間ほど後ろに下がって建てるように先人から聞いている。
 昭和10年頃、神官の舩木信敏宮司が八坂社は素盞鳴尊を祀ってあるので東猪谷と舟渡の社名を素盞鳴社と変更するよう神社庁に届けて今日に至る。
 いつの時代も変わらないのは子孫繁栄と夫婦円満を願う心で、境内に小さいながらも男根崇拝の物が祀ってある。東猪谷、小糸と同じく湯釜神事がある。

25d 舟渡 秋葉神社 (「郷土研究 大沢野町 ふるさと下夕南部:野菊の会編」より要約)
所在地:大沢野町舟渡
別 称:秋葉大権現
類 型:石像(高さ47センチメートル)
造建者:富山市 岩田倉次郎
造建年:明治26年10月建立
信 仰:火伏せ「名高い火防の神様」

 秋葉信仰が始まったのは昔、吉野部落に大火があった時からと推測される。
(吉野の大火は三度)下夕南部及び対岸の各村を含め、火災が一件も無いという部落は無かったのでかなり昔から秋葉信仰があったと思われる。舟渡の秋葉社も石像を調べてみると明治26年10月建立と在る。石工は富山市の岩田倉次郎とある。飯縄大権現で口は鳥の様で羽根があり、白狐を踏まえて刀剣と索を持った浮き彫りの立像で、またの名を鳥天狗ともいい、正一位秋葉神社として信仰している。もし、部落に大火災が有ったときには部落の代表1?2名が静岡県の秋葉神社へ代参に行くという。

舟渡の飯綱(いづな)権現

(ホームページ「おらっちゃの大沢野ハイパー風土記」より転載)
 西猪谷から神峡橋を渡ると、正面に素盞鳴社(すさのをしゃ)があります。その境内のうしろに小さな祠があり、その中に祀ってあります。その姿は、浮彫後光背型で、右手に剣を立てて持ち、左手に索をとっています。背には長大な双翼が彫られ、火焔光を負って疾駆する白狐の背中に直立しています。顔は鼻と口が突きでて鳥天狗面に造られていて、秋葉様とも秋葉大権現とも呼ばれ親しまれています。
 昔、下夕村には火事がたびたびおこり、人々は大変心配しました。みかねた村人の一人が遠州の国から秋葉の神を招いたのがきっかけになり、東街道一帯にひろまったといわれています。また、下夕村地区に昔、「秋葉講」があり講金を積立てて、講員が交替で秋葉山へ代参し火防を祈願して帰村していましたが、そのうちそれぞれの村にも秋葉様を祀り、ここにも日常参詣できるようにしたということです。

飯縄(いづな)権現

 遠江国周智郡の秋葉山三尺坊の祭神で、火伏の神である。秋葉大権現、秋葉さまとも呼ばれる。その形像は、右手に剣をたてて持ち、左手に索をとる。背には双翼を張り、火焔光を負って白狐の背に立つ。顔は、鼻の突き出した鳥天狗面に造られる。

舟渡部落名の由来

(「郷土研究 大沢野町 ふるさと下夕南部:野菊の会編」より要約)
 舟渡地区には縄文期や弥生期から人が住んでいた形跡が発掘物(石器類、焼物類)からうかがえる。従古、古老の話によるとこのところは船場があったところで、川向かいの川端に船人達が住んでいたそうだ。下畑に住んでいた人たちは船に関係した仕事をした人々ではないか。昔、その地域の家には屋根裏に削りかけの櫂のような形をした物が二本有ったり、鮭や鱒を捕るヤスや、川床に伏せておいて魚が上を通るときに瞬間に引き上げて捕るL字状のヤスもあった。以上のことから船を渡す船場が有るところであるから「舟渡」の地名が起こったとも云われる。
 また、別の説では「加越能三州之図」の古絵図に、舟渡の語源は舟の渡し場のことではなく、道祖神の来勿処神(くなとかみ)、「ふなどのかみ」の意味で、その神が祀られている所だという。道祖神信仰は信濃から飛騨を経て伝来したもので、船津はまさにその伝播経路にあたり、「ふなと」「ふなつ」の語尾の音の「と・つ」は所謂通音(どちらでも同じ意味)である。
 その絵図の中央の上端に「上船渡、下船渡」の地名が書き込まれていた。語源には諸説有り定説は定かでない。
 下夕地区の村々の入り口には、悪霊や疫病の侵入を防ぐという「道祖神」がみられます。
 道祖神は「来るな!」という意味の来勿処神(くるなのかみ)といわれ、それが転じて経勿処神(ふなとのかみ)となり、約してその地を「ふなと」と呼ぶようになったと考えられます。
 舟渡のお宮と東猪谷のお宮は、ともに素盞鳴(スサノオ)社ですが、この二村の神は、実は夫婦神で東猪谷が女神、舟渡は男神だと言われています。
 神話では、道祖神(=フナドの神)はサルダヒコの神ですから、東猪谷の神はその妃(きさき)であるアメノウズメの尊(みこと)と考えられます。
 「舟渡」の由来については、これとは別に舟の渡し場があったからだという説もあります。村境には、悪霊や疫病の侵入を防ぐ道祖神がある。

25e 25f 25g 25h 25i

ページトップへ