中新川郡舟橋村仏生寺 神明社 由緒書

37a

鎮 座 地
中新川郡舟橋村仏生寺(字西中田割)233-1番地
氏子町内会
中新川郡舟橋村仏生寺
祭   神
天照大御神
上筒男命
祭   日
春祭 4月18日
秋祭 10月12日
由緒沿革

 天照皇大神の勧請年月日等不詳なるも古来現地鎮座村社神明社の祭神なり。上筒男命の由緒不詳。古来当村674番地鎮座無格社住吉神社の祭神なり。右住吉神社維持難相立に付、村社神明社へ合併方大正11年4月許可を得て合併執行す。昭和57年年1月に旧番地348番地を233-1地番に変更。又、拝殿の屋根修理す。

仏生寺城跡

 本村内の竹内、仏生寺、海老江より立山町の浦田、極楽寺、二塚方面一帯は、鎌倉の末期から戦国時代にかけて都の社寺の庄園として大いに繁昌したものである。 仏生寺城は、仏生寺より稲荷、竹内の三村に跨り、細川、白岩川、八幡川河水を引き、濠をつくり、堅固なる城を築き此の外側には真言宗高野山の末寺十二坊が、浦田の山王杜を奉じて壮大な堂塔をつくり、四隣に宗教をひろめたらしく、海老江の等通寺、浦田の照明寺、寺田の極楽寺、安念寺、仏生寺の仏生寺、大願寺等はその十二坊の内に数えられたものであろう。仏生寺城が佐々成政に攻められて亡び(三州志)、豊臣秀吉が浄土真宗を擁護したため自然に真言宗が衰微し、富裕の寺のみが浄土真宗に宗旨換えをして今日に及んだものであろう。仏生寺城については確認できる伝記はないが、竹内城、稲荷城との名称もあり、距離地形の関係上此等が同一のものに相違なかろう。
 仏生寺城につきその史実を「故墟考」「越中志徴」その他の記述から拾ってみると次のようなことが載せられてある。 
 「故墟考」によれば、仏生寺城跡は高野郷仏生寺村領にある。伝えるところによると細川曽十郎の居城であるという。細川は越中五大将の一人で高野郷を領していたが、佐々成政のために攻落された。この細川曽十郎は又宗十郎と記したものもある。備中の守とも称している。
 斯波武術義廉に六家老があつた……その内、鹿草、二宮、細川の三人が越中へ下った。この細川はその一族であろう。二宮は上熊野城(富南地区)に居城している。戦国時代に二宮左衛門太夫があつた。一説には、元暦の乱に、平清盛の公達方の幼児を、越中守盛嗣(八妃町杉原地区井田城)が越中の山林に匿っていた。その子が後に平左衛門信正となった。信正が長じて仏生寺城主の左四郎元貞を攻略し、その城主となり、武威を近郷に振いその子孫が四代続いたという。しかしながらこのことを記録した徴書がない。
 「宝永誌」には、仏生寺領の内に城跡がある。これは細川曽十郎と申す者が居住していたと伝えられ、只今は田畑になっている。
 「宝暦十四年調書」 (西紀一、七六四年、一九九年前)には、仏生寺城主は細川曽十郎と伝えられ、只今は宮林並作所となっている。
 「古城記」によれば、仏生寺城跡は東西六十間、南北九十間、塹(ざん:掘)が五間あって、南に小川が流れている。北の高さ五間、西には二間の塹がある。富山城への距離埠二里である。安永三年(1774)、この城跡を見ると、無量寺より東南に本城の跡があり、北南に土居があり若狭川を帯びて貿固の地である。この外の処々に土居、塹跡が残っているようで凍るがはっきり分らない、耕して田畑になっていると述べ、 又富山本古城記に、仏生寺館の細川宗十郎は城生村へ引越し、一冬過して後魚津へ引返したとある。(旧の舟橋村史 昭和3年より抜粋)

ページトップへ