日本三代実録
平安時代、延喜元年(901)に成立した日本の公式史書。その名の通り、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の三代、天安2年(858)から仁和3年(887)までの三代の天皇の御在位期間30年に実際に行われた行政の記録書として編纂された。「新川神」に関する原文記述はそれぞれ下記の通りで、他国、または同じ越中の諸神の授位も記されている。
巻十四 清和天皇(56代)貞観九年(867)二月「廿七日丁酉。近江國正四位下勲八等兵主神正四位上。越中國従四位上鵜坂神従三位。従四位下日置神従四位上。 正五位上大新川神従四位下 を授く」
巻廿九 清和天皇 貞観十八年(876)「秋七月十一日丙戌。甲斐國従四位下勲十二等物部神。 越中國新川神並びに従四位上 を授く」
「越中志徴」には「(略)按ずるに祭神は既に貞享の由来書に白山神明天神と記載して、式外新川神社の事を載せず。新川神に神階を授けることは三代実録に見ゆれど、その神階は立山に鎮座ある雄山神社なるべし」とあるが、雄山神の授位は
「日本三代実録」巻七 清和天皇 貞観5年(863)「九月廿五日甲寅、正五位下から正五位上授けき」
「日本紀略」前編二十 宇多天皇 寛平元年(889)「八月廿二日、正五位から従四位下」
とある。
加えて「越中古代社会の研究」(木本秀樹著)では「森田柿園『越中志徴』において、『日本三代実録』貞観五年九月二十五日甲寅条に「雄山神」と記載されているとしているが、柿園の見たものは近世の流布本であることも考えられ、諸写本にに「雄山神」の記載のないことから、この点は柿園の失考であろう。」との説もある。
編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。途中で菅原道真は太宰府へ左遷、三統理平は転任し編纂から外れた。六国史といわれる古代日本の律令国家が編纂した6つの正式な歴史書(日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後・日本文徳天皇実録・日本三代実録)の6番目の書。これ以降、正式な国史は計画はされたが完成には至らず今日に至る。明治時代にも六国史以降の正式な国史編纂を計画されたが様々な事情で実現せず、代わりに大日本史料(通史ではなく資料集)が編纂された。
内容は詔勅(しょうちょく:天皇が公務で行った意思表示)や表奏文(文書をもって天皇に上奏すること。また、その文書)を豊富に収録し、先例のできあがった慣行を記載するなど、読者である官人の便宜を図った内容である。節会や祭祀など年中行事の執行を毎年記し、全国の神社に関する記録も多く、記述の密度は六国史中もっとも高い。
日本三代実録に見える富山の地震
地震の記録として「貞観5年(863)6月17日戊申、越中越後等の國、地大いに震いき。陵谷處をかえ、水泉湧き出て、民の盧舎を壊し、圧死する者多かりき。これより後、日毎に常に震いき。」とあり、富山、新潟地方の大地震を伝えている。
東北大地震・津波の古記録
貞観地震として貞観11年5月26日に東北地方の海底を震源地とする巨大地震(推定マグニチュード8.3以上)が起きた事と、津波の被害の甚大さも記録されている。 平成23年3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震との関連性が指摘される史料として注目される。
貞観11年5月26日(869年7月9日)の大地震発生とその後の被害状況については、次のように伝える。
現代語訳(意訳)
「陸奥国で大地震が起きた。(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立っていることができなかった。ある者は(倒壊)家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑み込まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合ったりなどし、城や数知れないほどの倉庫・門・壁などが崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、潮津波が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、野原も道も大海原となった。船で逃げたり山に避難したりすることができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった。」
貞観大地震に対する朝廷の対応について、日本三代実録の貞観11年9月7日(869年10月15日)の記事には、次の通り、紀春枝を陸奥国地震使に任命したことが記載されている。同年12月14日(870年1月19日)には、清和天皇が伊勢神宮に使者を遣わして奉幣し、神前に次の通り告文を捧げた。告文では、貞観大地震をはじめとして相次ぐ天災や事変について報告し、国家の平安を願っている。