社紋 違い鷹の羽
社紋とは
家紋と同じように、神社にも紋所があり、社紋(しゃもん)という。神社の社殿に彫金されていたり、御神輿に金色の彫刻で飾られたりして光り輝く紋は神社の象徴として親しまれている。
また、社紋とは別に御祭神の御紋を神紋(しんもん)といい、社紋と併せて意匠する神社もある。神紋の起源は、主に御祭神に関する伝承、由緒に基づいている。
神社に紋が二つ有る場合、一つは神様の御紋、もう一つは神社の御紋と解すれば良い。京都・石清水八幡宮の神紋は左流れ三つ巴、社紋が橘などである。
神紋は天皇を御祭神とする場合菊の紋、八幡神の場合は三つ巴、天満宮は梅の紋が多いが、違う場合もある。
個人の家々で使用する家紋の起こりは平安時代の末頃から、公卿が自家の牛車に目印として図様をつけたことから始まったとされている。
鷹の羽
鷹は俊敏で、その姿は数いる鳥のなかでも群を抜いて誇りに満ちた姿であったことから、鷹の羽は古来より武士の間で尊ばれ、好んで武人の象徴とされてきた。宮中では元日の節会や御即位の式などには、左右近衛の両陣に鷹の羽を掲げたといわれる。鷹の大空を悠々と飛翔する姿は空の王者とよぶにふさわしいもので、「鷹=たか」は、「高い」、「猛々しい」、「強い」と言った意味を有し、昔から武人は鷹をもってシンボルとしていた。
鷹の羽がどうして紋章化されるようになったかは、古くは鷹・鷲の羽根を矢羽根に使用したことに起因すると思われる。強い鳥の羽根は狙った獲物をよく射止めるであろうと考えられたからであろう。クマタカの羽根の模様がはっきりとした物は上等品とされた。ハクタカは小型なので羽根の大きさや強度は他の鳥ほどではないが、模様が綺麗である。
富山の 立山開山縁起 にみられるように古代、タカは猛々しい果敢な性格から霊界と現世をつなぐ霊媒者とみなしたことと、高い木に巣作りする習性から高い木に宿る神の化身とみなして信仰の対象となった。 「雄山神社HP 白鷹伝説」参照
鷹の羽紋は、秀吉の朝鮮出兵で多くの武将が北九州に集まったときを境に東進が加速したようで、それまでは北九州一円の武将の多くが「阿蘇神社」の神紋であった「鷹の羽」紋を使用して武運長久を願っていたようである。
文永十一年(1274)の蒙古襲来に際して、菊池次郎武房が弟の赤星三郎有隆や 菊池八郎康成らを引き連れて出陣し大功があった。 弘安四年(1281)、再度の蒙古襲来にも武房を中心に菊池一族は博多に出陣、 奮戦して名をあげている。両役のことを活写した『蒙古襲来絵詞』の中には、 異国の敵に立ち向かっていく武房の旗印に「二枚並び鷹の羽」が描かれている。
このように、鷹は神の使いとして、また武を表すものとして、神紋、社紋、家紋にも取り入れられたようだ。
思うに新川神社の御祭神である大新川命は軍事・武力で朝廷に仕えた物部氏の祖神である。物部氏は代々石上神宮で朝廷の武器の管理、製造を職種とした有力軍事氏族の祖神としての御神威に相応しい紋章といえる。