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新庄城

 新庄城は、東に常願寺川、西に荒川を望む要害の地にあり、北陸道に面する交通の要衝にあったため、 早くから軍事上の拠点として重要であった。太田新城、辰城とも呼んだ。

 永正17年(1520)越後の長尾為景は神保慶宗らを討つため越中に進攻し、慶宗を敗走させ、自刃に追い込んだ。 このとき新庄に陣したといい、これが初めての記録である。この頃、新庄城は長尾方によって整備されたとみられる。
 元亀3年(1572) 上杉輝虎(謙信)の武将鯵坂長実が在城し、5月、一向一揆が富山城を攻略すると、新庄城は上杉氏の富山城攻めの前線基地となった。
 天正8年(1580)織田信長方の神保長住が新庄城を攻めており、佐々成政が富山城を拠点とした越中平定には佐々方の城となっている。
 同13年(1585)、上杉方の土肥氏勢が一時新庄城を奪っているが、その後前田氏の城となり、元和元年(1615) までには廃城となったと思われる。

新庄尋常高等小学校運動場沿革より  江戸時代の記録によれば、城の規模は東西140m、南北100m以上で、本丸と二の丸からなる。周囲には土塁と幅8mの堀がめぐる。 本丸と推定される高台は、かつて御屋敷山と呼ばれ、現在は新庄小学校グラウンドとなっている。周囲には、古城跡割・古城・馬場・ 屋敷割などの小字がかつて残っていたが、宅地化が進み城の面影はない。
【写真】(新庄尋常高等小学校運動場沿革より)