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轡田備後守

(新庄町史 昭和50年より転載)

轡田備後守(くつわだびんこのかみ)?1576。戦国時代、上杉謙信に組していた越中の部将。あるいは七寸五分(くつわた)備後守とも表すこともある。

 はじめ豊後守と名のった。轡田修理太夫、専用備前守これも皆同一人物である(専用備後守は豊後守の弟とする説がある。)轡田氏は九州出身者といわれ、いつの時代か婦負郡の鵜坂村の轡田に住し、はじめ神保氏につき、近隣に威を振ったといわれる。

 『越中婦負郡志』 の上轡田村・下轡田村の項に「上、下轡田二村は古への轡田村にして元上新川郡なる宮川郷に属せる地なりしが、享保年間に至り入口の増加につれ遂に両村に分立せるなりという。轡田村の起因につきては下の口碑今に存せり。当地には往古轡田左衛門尉と称する郷士ありて威望四隣を圧し他士の当地を侵略するものなく轡田の村なりと称せるにより斯く襲用して今日に至れるなりという。」とある。

 永正17年12月21日、神保慶宗が椎名、土肥らの裏切りによって越後の長尾為景に討たれるが、この時、轡田氏も神保氏を離反、椎名を通じ長尾方についたとか。為景亡き後は、謙信に組する有力部将として大村城(富山市海岸通り) に居城したという。天文十九年、新庄城主三輪飛騨守の没落により備後守が新庄城の城主となったことは三輪の項で述べた通りである。しかし、その後、井上肥後守(備後守の子轡田肥後守と同一人物という説あり。疑いあり。)に新庄城主を譲り大村に退いたが、永禄11年(1568)、武田信玄と連絡をとっていた椎名康胤が上杉謙信反逆の兵をおこしたので、これに従って備後守も謙信に抗した。元亀2年(1571)、椎名反逆に怒った謙信が越中に侵入した。備後守は井上肥後守を授けて新庄城を守ったが敗れ、井上は船倉に、備後は大村に走った(『三州志』は元亀三年とす)。

 松倉城主椎名康胤が、天正4年(1576)、謙信に攻められ蓮沼城(小失部市)で自刃後は暫らく鳴りを鎮めていた。天正6年(1578)3月、上杉謙信が急逝すると、家督相続争いのその隙に乗じて反したが、越中を守備していた景勝の将、河田豊前守のために攻められて戦死した。

〔三州志〕

 大村城。天正六年謙信下世(死すること)により轡田豊後(或いは備前。或いは備後。或いは豊後。未だ知らず。いずれがこれか。)之に拠るを、景勝攻 めて轡田戦死せりと云う。(愚按。此の後轡田肥後といえる者本記に見ゆ。疑はらくは豊後は肥後の父か。)

轡田肥後守(くつわだひごのかみ) 戦国時代の越中の部将。生後年月日不詳。

 はじめ謙信に仕え、後上杉景勝に仕えたと伝えられる。謙信に従って功があり、甲城(石川県鳳至郡能都町甲)の城主となった。父の大村城主轡田豊後守の戦死後は大村城に入いり、景勝に属して一円を支配した。再び新庄城もその傘下に組み入れられた。天正年中、富山城主佐々内蔵助成政と千戈を交へ、新庄城も陥落して成政の領するところとなり轡田氏は没落した (『越中史徴』)。

(注)轡田氏が佐々成政と千戈を交えたのは天正十年とする説があるが、これは史的根拠はない。恐らく、天正六年から天正十年までの間の出来事であろう。

その後の轡田氏

 佐々成政によって没落した後のことはよくわからないが、備前守の孫、轡田照善(てるよし)は新川(今の魚津市)に新庄山照善寺という東本願寺一向宗の寺を建立した(出家の動機について不詳。上杉氏にこの地へ追いやられたともいう)。現住職は轡田憬十(けいじゅう)氏(廿一代)である。
(附記)このほか、西水橋地区には子孫が開いたという西本願寺一向宗の蓮勝寺がある。現住職は十八代の轡田賢了氏。

 

〔越中志徴〕新川照善寺。東本願一向宗也。魚津古記に、此寺の開祖は新庄の城主轡田豊後守の孫と云う。依て新庄山と号すと也。此寺慶長の頃は魚津にて今の尾山屋権左衛門屋敷と云う。其後下村木村(新川小津下村木=現中央通り)に引越といへり。(注)住吉に初め移住。住吉に塚あり。東布施池尻、福平に轡田屋敷あり。