安政5年の地震後の大洪水
(S50新庄町史308頁より)
今を去る百十六年前、安政五年(1858)に起った安政の大洪水は、常願寺川の沿革史上、被害の最も大にして、その恐怖は新庄の町の人々の語り草になっている出来事である。その時の模様をいま回顧してみることにする。
安政5年2月13日・22日(旧暦)と二度にわたる無気味な大地のうなりを聞いたあと、ついに25日夜、越中の天地を轟かせる大地震が起ったのである。
この地震で、常願寺川の水源地大鳶山・小鳶山の西方が残らずふもとからくずれ、土砂、岩石が滑川それに真川まで閉塞し、いくつもの湖水をつくった。歴史に残る〝トンビ山の大崩壊〟である。こうして数十日間を支えたこの深山の天然の貯水地が、4月26日に至り、午後4時に一時に決壊。とうとうたる洪水は大土石流となって、天をもおおわんばかりの勢いで常願寺川扇状地に来襲した。洪水の本流は、町新庄で、東西二つに別れ、町新庄から荒川へと西へきりこんだ流れは、上富居、上下赤江、粟島、栗田、中島を埋没し、中島村(現在の富山市中島地区)で神通川に落ち合った。
上滝から東岩瀬まで、やく40キロ余りの間で、流失あるいはつぶされた家屋1613戸、流失土蔵896棟、溺死者140人、負傷者8945人という惨胆たる被害であった。
山田敏一氏は『新庄史稿』 の中で次のように新庄の被害を述べている。
「過去に、元和元年(1615年。新川神社を流す。その時出来た川筋を中川といい、中川の東に向新庄村が出来た。)、明暦2年(1656年。その時出来た川筋を荒川といい、川の西に荒川村が出来た。この時、町新庄、向新庄、荒川村に分れる。新庄に三っ名この時より始まる)と洪水があったが、安政5年の大洪水は前後にその例無き大水で、2月25日犬鳶山(上新川郡大山町)俄然地震のために崩壊し、湯川を閉塞し辛じて数十日間を支えたが、4月25日夜(4月26日午前2時)に至り、深山の一大堰塞湖の水が渓谷の一角を突き抜いたので逆巻く泥流は磁ら天馬の空を奔るが如く激流岸を噛み、常願寺の左岸一帯の地を怒涛の荒れ狂うに任せ、十里の美田一朝にして荒蕪(あれはてる) に帰し、人畜の死傷、家財の流失あげて数う可からず。酸鼻(いたましいこと)の状、撃部の胎く麒す所にあらず、後世永くその惨況が語り伝うる所となった。新庄新町が濁流の瀬先に当り、最も軒憐(非常にいたましいこと)を極め、屋根の上に避難する間もあらばこそ、見る見るうちに家財諸共押し流され、上冨居村の辺りまで溺死者が多数あり、新町の寺子屋師匠盛田与四右エ門の家も水難に遇うた。命拾いした者は古城跡の百足山つづきの丘の上にのぼり、辛うじて小屋を掛け一時を凌いだが大水が引いた後それまで新町にあった正願寺を始めとし、黒川、橋本、佐伯、宮嶋氏等が相次いで荒川の西に移転し、荒川、経堂まで町家が軒を並べ、綾田、田中も元村から街道筋に家を移し、西町(双代) の武具師の家も城の南方の川端屋敷から移転して来たので、川原の町並みが賑うに至った」
なお、この大洪水のあとについて常川湜氏は、『新庄町史』の中で、次のように述べている。
「洪水のため、広田川(林十作二二鍋良三郎の屋敷地はその川跡なり)も埋没され、位置も改変(新庄役場敷地、現在消防署跡)され、被害地一帯は泥棒(とんべどろという)を以て敷きならされ、凹凸は平均され、浅きも数尺深きは数間の土盛をされし如くで、現今稲田面の基礎を築き上げ、さすがに礦?(石多きやせ地)卑湿(低くくして湿気があること)の瘠土(やせたる土地)も、今日の美田と化せしことは、驚嘆の外はない。
現に洪水以前、鍋田・中富居辺りは、非常の郁妙で、時の人は、「鍋田中富居焼けつけ所、嫁もやるまい、嫁も娶るまい。」といいはやされた程、不味い瘠土であったが、洪水後は一変して今日の美田と化したるごとき、その一事をもっても証するに足るであろう。
(以上 新庄町史より)
未曾有の大災害合った安政の大地震と洪水はその後、思わぬ恩恵を民に授けることになる。「とんべどろに不作無し」といわれるように痩せ地が、肥沃な農耕地になったこと、加えて荒川、常願寺川筋へたくさんの石が流れてきて石材採集にこと欠かなかったことである。従って自然に石工が生まれ、その技術も大いに進歩し、多くの名工を輩出した。
新川神社の境内にも新庄地内(大日社の境内のものか?)にあった巨石を参拝者の椅子として運ばれた物があったが、平成17年の境内整備工事の時に「夫婦円満夫婦石」として地中に並べて安置した。