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どべ

「どべ」祭

(新庄町史 常川湜 165頁より)

 毎年四月十九日は、新川神社の大祭で、全町にわたって行なわれた。氏子は礼装で各々門戸に立って、神輿(みこし)の渡御(とぎょ)を御持し、礼拝することになっている。ところが、その渡御の際の雑沓(ざっとう:人混みのこと)を防ぐ悪魔払が、荒武者の仮面をかぶり、具足を着け、わらじをはいて、かいがいしく長刀を小脇にして先頭を進む。そのとき、見物の群衆がドッと声をあげ、口を極めて
 「どべやー、どべや、赤ねこや ふんどし被りや、ねずみ捕らすや………」
と連呼してどなりたてると、どべは、さも怒心頭に立ったように、群衆めがけて追い立てる。群衆は、なだれを打ってにげるという状熊である。その追いつ追われつする事のおもしろさに、遠近より、貰い祭などといって半日の業務を休み、かねての宿望、「どべ」とのおい合いをなし、心よい疲れに満足して帰るのが慣(ならわし)である。

新庄の人気者「どべ」

(「新川神社由緒書」参拝者向け社頭配布資料より)

 新川神社春祭りの人気者、どべ。昔から新庄の子供たちはどべをはやし立てて怒らせて、逃げ回ることを楽しみにしていました。どべも子供を見るとなぎなたを振りかざしながら驚かそうと近寄っていきます。子供が怖がって逃げても追いかけて来ますが、最後には頭を撫でてくれます。昔から小さな子供がどべに頭をなでられると「できものが出来ない、病気にならない、頭が良くなる」といわれ、春祭りにはお母さんたちは我が子を撫でて貰いたくて、どべが来るのを心待ちにしています。どべは大人から子供までみんなの人気者です。

「どべ」は「猿田彦神」という神様です。

 さて、では「どべ」とは何者でしょうか?実は古事記や日本書紀という日本の神話に登場する猿田彦神(さるたひこのかみ)という神様です。猿田彦神は天照大御神の孫である「ににぎの命」という神様がこの日本の国に天界から降りてこられるときに、道案内をした国津神(元々日本の土地にお住まいになっていた神様)です。
 神話(日本書紀)には猿田彦神の事をとても恐ろしく怪しい姿であったことが以下のように書かれています。
「鼻が長く、背が高く、口のはしが明るく光っていて目は鏡のように光り輝いて赤ほおずきに似ている。上は高天原を、下は葦原中国を明々と照らし、その光が鋭くどの神様も恐ろしくて近寄れませんでした。」
 これを元にして新庄の昔の人が考えられたのが今のどべのお面と装束です。

「どべ」は交通整理のおまわりさん

 「どべ」のお仕事は神様の道先案内人と、悪い神、邪鬼からおまもりすることです。春祭りは新川神社の神様が年に一度、新庄町の家庭訪問をされる日です。みんな元気に暮らしているかな、まじめに生きているかな?と様子を見に来られます。その神様の行かれる道を案内しながら、もしも神様の行く手をじゃまするものがあればそれを祓いよけるのがどべの仕事です。怖い顔をしていますが本当は優しい心をもった、正義の神様なのです。

「どべ」の語源

新川神社のどべ 黒部市宇奈月のどべ

「なぜ「猿田彦神(さるたひこのかみ)」が「どべ」と言うようになったのかは正確にはわからないのですが、黒部の宇奈月町に伝わる昔話で「ドベ猿(ざる)」 という昔話が伝わっています。この「ドベ」が語源ではないか、というのが現在最も有力な手がかりです。

この昔話を何種類か分析しますと、「どべ」とは

①ばかもの・だら(富山弁で同じ意味)

②牡(オス)の意

③川魚の雑魚で「あぶらはや」という、小魚でドボッとして身も締まりが無く煮ても焼いても食べられないくらいに不味いので、「食べたら髪の毛が抜ける」と言われるくらいに嫌われている魚のこと。引いては身体がブクッとしていて能なし者の事を「どべ」「どんべ」といって馬鹿にするときの呼び名となった。

と解釈されています。

新川神社のどべ


富山市では富山弁として「どす」という言葉が同じ意味で使われてきましたので音が似てますし、語彙の類似がうかがえます。

新川神社のどべ 子供とどべ1

子供とどべ2 子供とどべ3

新川神社の「どべ」は元来、「古事記・日本書紀」に現れている天孫降臨で邇邇芸命を始めとする皇孫の道案内を買って出た国津神である猿田毘古神であったので、同じ「猿」つながりで、この「どべ」という罵声を浴びせて、わざと怒らせ、からかって楽しんだのが始まりではないかと思います。

天孫降臨 子供とどべ3

ご参考までに富山県黒部市宇奈月町の下立(おりたて)という地に伝わる民話をご紹介します。

黒部・下立(おりたて)のドベザル

猿田毘古神 どべ

黒部・下立(おりたて)のドベザル

さぁて、下立(おりたて)のドベザルというはなしをしようかいの。
むかしむかし、今の宇奈月の下立(おりたて)にずるがしこいドベザルがいて、よく村人をだましておった。このドベザル、みたところぶくっと太っていて、ダラ(馬鹿)みたいやけど、どうしてどうして、あたまのいいサルでしたたかなやつじゃった。
村のこんぴら山へのぼる坂道のかげにかくれておって、毎朝そこをとおる魚屋にばけて村のかぁちゃんたちをだましていた。 魚屋にばけたドベザルがてんびんぼうで魚の入れ物をひょっこらひょっこらさせながら坂道をおりてきて「エエー魚いらんけぇー、魚いらんけぇー、キトキト(新鮮な)のカレイいらんけぇー、ピチピチのイワシいらんけぇー」

こんぴら山の参道 こんぴら山の坂道

ねじりはちまきにハッピ姿でいせいのいい、若い男なもんだからついつい、村のかあちゃんたちは先をあらそってまでして魚をかってしまったものやった。

魚屋にばけたドベザル

 ところが買った魚を戸だなにしまっておいたら魚がどこにもなくなっとる。
 かあちゃん、びっくらこいて「けさ買った魚、だれかどこかもっていったか?戸だなの中にしまっておいたから、ネコやネズミじゃもっていけるはずないしの!だれじゃ?」と、おおあわて。
 おなじ魚買ったかあちゃんたちもおおあわてで、みんなでそうだんしたところ、「もういちど、あのさかなやの魚をこうてみるか」ということになって、次の日の朝も魚をかったんじゃ、みんなで。そして戸だなにおなじようにしもうて、しばらく見ていると、なんと魚がみえんようになった。よくよくみると、魚がみんな木の葉になってしもうとった。カレイをおいたところには朴の葉っぱ、イワシのところには栗の葉っぱになっとった。
「こりゃ、だまされたわい。ありゃキツネか、ドベザルにちがいない。こんどおうたらバケのかわ、はいでやろ。ちきしょう、ひどいめにあわせたろ!」と、かんかんにおこった。

こんぴら山

 さて、このかあさんたちゃ、若い娘たちが夜になると、コンピラ山の坂道の下り口にあるはたおり小屋にきものをおりにいっておった。
バッタン、バッタン、はたをおりながら「糸ひき歌」などうたって、とてもにぎやかなところへ、障子(しょうじ)にあなをあけて、それをのぞきにくるものがいた。
 あなをふさいでも、またあなをあけるので、障子のそばにいた若い娘が、もっていた針で、あなのところをついたと。「ギャアー!ギャアー!」とすごい声をあげて、どたばたにげていくものがいる。そりゃ人間のかっこじゃなくて、サルにそっくりで、山の中にきえていった。
「ありゃ、コンピラ山の坂道におるドベザルに、にとったじゃ。」と見たものがいった。
 それからは、あの若い魚屋もこないし、はたおり小屋の障子をやぶるものもいなくなった。
 そして、ある日、山の中で目をおさえたドベザルにあったというものが、「おりゃ、村の人だましてばっかりおったもんだから、えらいばちゃたって(たいへんな天罰があたって)、目がみえんようになってしもた。
 これから目をなおすために、この村を出て行くことにした。
 村の人には悪いことしてかんにんしてくりゃっせ。だましてかせいだ金は全部かめにいれて、コンピラ山の谷にうめておいた。
 そこのミツワウツギのつゆの落ちていないところにさがしたらあるさかい、見つけたらつこうてくりゃっせ。」と言って、遠くの山へいってしもうた。

にげたドベザル

 それっきり、ドベザルは下立にかえってこんがや。
 それをきいた村のもんたちゃ、おおさわぎで、われもわれもと谷に入り、草を刈ってさがしだしたがや。おかげで荒れ地がきれいにひらかれて田んぼや畑がふえてむらのひとびともよくはたらいたおかげで下立の村はたいそうさかえたそうじゃ。
 ところが金のつまったかめは、まだみつかっとらんがや。おとまっしゃ(もったいない)。

(参考図書)にいかわのむかしー民話・伝説・歴史100選— 柴垣光郎著 第一法規出版
※上記の物語りを基本にして若干わかりやすく改訂しました。

下立金毘羅社の森 こんぴら山のながめ