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新川四社大権現由来書

宝永三年(1706)新川四社大権現由来書:舩木宮司家蔵 解説

新川四社大権現由来書_1 新川四社大権現由来書_2 新川四社大権現由来書_3 新川四社大権現由来書_4

  現存する最古の由緒書。御祭神に面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(あやかしこねのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・天照大神(あまてらすおおかみ)を祭り「新川四社大権現」と称し、新川郡を守護する総社であることが記されている。当時社殿造営のため、寄付を募るための趣意書として記された由緒書であることが末文から読み取れる。

 二枚目の三行目に面足尊・惶根尊の神の託宣(お告げ)の中に「灑神山清流」の五文字有り、神山(立山連峰)の川の清き流れがそそぐ処であるが故にこの郡を新川と呼ぶ、との新川の地名譚が見える。この二柱の神々は託宣を告げると白鷹と成って巽の方角(東南)へ飛び去ったとある。
 また、毎年恒例の祭礼を3月19日に怠ること無く務めた事が見える。旧暦の3月19日に併せて現在の新暦4月19日に春の例大祭が斎行され、現代まで継承されている。

 現在の御祭神との相違は元和元年(1615)夏の洪水で被災し、翌年現在地に遷座時に地主神の転換があったことに依ることかと推測されるが詳細は不詳である。

新川四社大権現由来書

 現代語訳:宝永三年(1706)新川四社大権現由来書:舩木宮司家蔵

 そもそも新川四社大権現(現在の新川神社が五本榎に鎮座していた頃の尊称)の由来を慎んで申し上げれば、天武天皇の御時世、白鳳元年(672)の正月二日寅刻( 3~ 5時)に齢にして八十歳ほどの老夫婦がこの地域(現在の五本榎と思われる。洪水被害のため場所は不詳。)の地主神である大日孁社の社頭に忽然と現れて三日間程滞在していたかと思うと、南の方へ去っていった不思議な事があった。
 其の後、白鳳三年(674)甲戌三月十九日に、かの老夫婦が再び同じ境内に訪れて来てこのようにお告げをされた。
 「我は面足尊・惶根尊(おもだる・かしこねのみこと)なり。この国に降臨してからというもの、高い山の麓、低い山の辺りの里や海辺を廻り訪ねながら清浄なる地を探し求めてきたのだが、此の場所は巽(東南)の方角には四方に延々と田が広がる平地であり清々(すがすが)しい処である。東の方角には勇壮な神の山があり、西の方角には果てしなく長い道が続く所に水流に恵まれた広い野原が広がり、北の方角には満ち満ちたる大きな海が広がっている素晴らしい処である。
 吾は此の所でやわらかい光の中に塵に交じるがごとく、命あるすべての物にあらわれて天下を守らん。(※注1)
 この地域に住む衆よ、神の山から清き流れが川となりそそいでくるこの麗しい処を「新川」と名付けて、我はこの地の守護神と成り、皆が常日頃から慢心を退け、心一つに素直にして我の神前に拝礼するならば、我はその心に乗り移って皆の願いが叶わぬ事は無いであろう。」とお告げするやいなや、白鷹と成って巽(東南)を目指して飛び去っていかれた。
 このことがあってから後にこの境内から神木が次々と沢山生い繁り、民衆は不思議なことだ、これは神様の御神威に他ならないと感じ、この御霊験あらたかな神様の事を広く群衆に知らせて寄付を募り、荘厳な社殿を造営し、面足尊・惶根尊(おもだる・かしこねのみこと)、その後に伊弉冉尊(いざなみのみこと)、天照大神此の四神を勧請し、新川四社大権現と号して新川郡を守護する代表的な総社と崇め奉り、朝夕には欠かさずお供え物を御神前にお供えいたし、神楽舞の五十鈴の音が鳴り響く音が鎮守の森の木々と同化するが如く神祭を怠ること無く勤め、神様がお告げをされた御縁日である三月十九日は毎年恒例の祭礼をお仕えいたしました。
 かような不思議な由来の神々の御神威は遠近の処まで知れ渡るところとなったのではあるが、正親町帝(※注2)の治世である永禄年間より、世の中に戦が起こり、国が衰えていった。このために神殿も月日が経つにつれて衰え、かつての霊場としての威厳が日々損なわれていった。加えて賊徒の為せる悪行により火事により社殿が灰と化し、なぜこのように道理に合わぬ事が起きるのか憂いておりましたが、今の世に成って賢君(東山天皇 ひがしやまてんのう1675-1710)の正しい政治を得て世の中が安定してきたところ、大勢の民衆から社殿の再建を願う誠心と出逢い、数多の寸志を集め、数多の人達の希望を達成させるために、扁額そのほかの神器を調達し、御神霊に捧げんと思う次第でございます。願わくは神社を再建したい皆さんの誠心からの御寄進を無駄にしないためにも、この再建事業の完遂のために今一度、志を一つに重ね、清らかな心で祈る人達のためにも計り知れない助勢を請けたく、慎んで重ね重ねお願い申し上げます。

               神主
  宝永三年(1706)八月神吉日  田宮丹後守藤原冝命 花押(※注3)


※注1・・・和光垂迹(わこうすじゃく)
老子の「和光同塵(わこうどうじん)」を、神仏習合の本地垂迹の立場から説いた言葉。衆生を救うため、本来の威光をやわらげ姿を隠し、仮の姿を俗世に現わすこと。例えれば水戸黄門や遠山の金さんみたいな感じ。

※注2・・・正親町天皇(おおぎまちてんのう)
永正14年5月29日(1517年6月18日)- 文禄2年1月5日(1593年2月6日)

※注3・・・現在の宮司家は元来「田宮」を名乗っていたので、家系的には直系の祖先。新庄遷座以降の五代〜六代の世代に当たる。

(現代語訳文責:宮司 舩木信孝)