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天神信仰について



【古来の天神信仰=火雷神(ほのいかづちのおおかみ)】

天神信仰とは古来、天神は「天空の神=天津神」であり、特定の神のことではなくて天界を司る自然の働き、すなわち日神、風神、雷神などの総称に対する信仰で五穀豊穣の神々とされています。
「地上の神=国津神」と共に「天地の神」として必ず併せて祭られてきました。天皇陛下の御製にも「天地の神」として数多く詠われております。

当時は大和朝廷にとっても農民達にとっても雨が降る降らないは死活問題でした。特に雷神が発露するカミナリは稲妻(イナズマ)とも言われますように雨を降らせ稲作には欠かせない雨を導く吉事として農耕豊作を祈る信仰の対象でありました。



【菅原道真公】

新川神社写真

平安時代前期・学者であり漢詩人でもある優れた才能を持ち合わせた官職である菅原道真は宇多天皇(867〜931)に重用され、次の醍醐天皇の治世の時には右大臣までに昇進された。
しかしながら当時の左大臣・藤原時平に「道真は自分の娘を醍醐天皇の弟である斉世親王に嫁がせ、行く末は帝を追放し弟君の斉世親王を天皇の位に導こうとしている」と讒訴(ざんそ=他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること。)されます。
父君である宇多天皇共々口うるさい道真を疎ましく感じていた醍醐天皇はここぞ、とばかりに大宰権帥(だざいのごんのそち)に降格、左遷し、大宰府(九州)送りになります。道真の息子、門人の多くも左遷されました。

東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな

道真が京都を去る際に詠んだ歌として有名な歌で、天満宮に梅の木が植樹されていますのは御祭神である菅原道真がこよなく愛でた故事に由縁します。
太宰府に着任して謹慎すること2年の延喜3年(903)2月25日、失意のうちにお亡くなりになりました。

その後、京都では様々な異変が相次ぎます。飢饉や旱魃(かんばつ)、そして道真の左遷に拘わった人々が謎の死を遂げていきます。

906年 道真左遷にくみした藤原定国が40歳で死亡。
908年 宇多天皇が道真の左遷を聞き潔白を告げようと醍醐天皇面会時にそれを拒んだ藤原菅根が落雷にて死亡。
909年 讒言首謀者・藤原時平39歳で病死。
913年 讒言首謀者の一人、右大臣源光が狩りで泥沼にて溺死。
923年 藤原時平の妹、醍醐天皇の皇太子保明親王病死。
925年 醍醐天皇の皇太子保明親王の子であり藤原時平の外孫・慶頼王病死。
930年 この歳旱魃に見舞われ雨乞いの会議が行われる日に宮中清涼殿に落雷。
     大納言藤原清貫他6名が焼死。
     落雷より3ヶ月後に醍醐天皇崩御。

このように天皇の在所である宮中に落雷による死亡事故、しかも死亡した藤原清貫が太宰府に左遷された道長の同行監視役を藤原時平に命じられていたこともあり、単なる偶然では無く、道真の怨霊が雷神となり落雷を起こしたという噂が巷に流れました。
このことを真摯に受け止めた朝廷は延喜23年(923)右大臣に復帰、贈正二位、その後も正一位左大臣、太政大臣など名誉回復をはかっています。

【雷火神+菅原道真=怨霊神 新たなる天神】

清涼殿落雷の件より巷では道真の怨霊と雷神が習合し、元々火雷神が祭られていた京都北野に北野天満宮を創建。道真終焉の地太宰府には安楽寺天満宮(現在の太宰府天満宮)を建立し怨霊を鎮めようとしました。

【怨霊神から学問の神様へ】

こうして「天神様」として「雷神」と「菅原道真公」が習合した新たなる「天神信仰」が全国に広まり、現代では怨霊鎮め、祟り封じの故事よりも御祭神菅原道真公が生前優れた学者、詩人であったことから現在では学問の神として広く崇敬されています。

【高杉晋作の菅原道真公への信仰・・・尊皇の「志」】

また、明治維新の志士である高杉晋作は篤く天神を信仰していました。
高杉晋作が菅原道真を信仰したのは単なる学問の神という事では無く、讒言されて太宰府に流されても死するまで皇室のことを慕い、忘れなかった尊皇の「志」を慕ったといいます。
高杉晋作は藩主世子の小姓に就き、上海に渡り見聞を広め、下関で奇兵隊を結成する。破竹の勢いで活躍していたがとある誤解から脱藩の罪を着せられ、野山獄に約80日間投じられてしまいました。
その間、読書と詩作に励む中、くじけそうな時には、菅原道真が讒言のため、「忠臣」であるにもかかわらず不当な末路をたどった事を想いながら、晋作は自らの境遇を重ね合わせ涙を落とし、そして苦境を克服しようとしたのです。

「恨むを休めよ空しく讒間の為に死すを/自ら後世議論の公なるあり」

元治元年12月、藩政府打倒の兵を下関で挙げた晋作は、大庭伝七にあてて、遺言ともいうべき書簡をしたためていますがこの中に、
「弟(自分)事は死んでも恐れながら天満宮の如く相成り、赤間関(下関)の鎮守と相成り候志にござ候」
と述べています。
「私は讒言にて死すとも恨むまい、後の世に必ず真実が明らかになる。私の死後は恐れ多い事ではあるが菅原道真公が祀られる天満宮のように下関を守る鎮守となって国をお守りいたすつもりだ」

今日は学問の神とされる天神信仰の根底にあるのは「至誠を貫く気高い志を神と崇める信仰」では無かろうかと思う次第であります。




天神祭
3月25日 天神祭