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「建築的思考のゆくえ」と「神道的思考のゆくえ」

 富山市の南部、大沢野の山に入る手前の春日温泉郷に「リバーリトリート雅樂倶」という隠れ家的な温泉宿がある。温泉宿というよりリゾートホテルと言った方が良いであろう。実際、有名人がお忍びで訪れる宿のようだ。
 この雅樂倶の建物は不思議な空間に包まれている。建物の中の空気感が他の温泉宿やホテルとも違う独特の雰囲気がある。人によって評価は違うが、独自性という意味では富山では異色の場所である。
 まず、車で訪れる道中で感じるのが、普通であれば温泉宿やリゾートホテルに行くとき、目的地に近づくと遠くからその外観が見えたり、看板などがこれ見よがしにあるものだが、これが無い。皆無では無いがさりげなくしか示されていない。現地についてようやく、「ここか」と気づく。建物も自然に埋もれてそれ自体は「ようこそいらっしゃいましたー、ここが温泉宿ですー」的な主張をしていない。川岸からみる外観も地味で、一見すると病院か療養所、研修施設のようなシンプルな建物である。ところがいったん建物の中に入るとその外観からは180°違う世界がそこにある。特にアネックスのエントランスホールはコンクリートブロックを積み上げた様な宮殿のような空間である。最初は「おおーっ」と圧倒されるが慣れると気にならなくなる。なぜか威圧感がするようでしない。コンクリートというと冷たいイメージがあるのだが、エアーコンディショナリングされた空間は暖かみがあり、逆に静寂感を演出しているようにも感じる。オーディオ機材開発用のリスニングスタジオの様でもある。エントランスホールの全面ガラス窓からはダム湖の静寂な水面と緑の山並みが見える。特に特色のある風景では無いが、眺めていると逆に落ち着ける。景勝地では無く何気ない風景だからこそ落ち着けるような気がするのは私だけだろうか。
 幾度か行くにしたがってこの建物を建築設計した人はどんな人物なのかが気になってきて、雅樂倶のライブラリーにあった本を通じて、このアネックスを設計された内藤廣氏の著作本を数冊買い込んで読んでみた。

 中でも印象的だった内藤氏の地鎮祭に関する所感を是非紹介したいと思い筆を執った次第である。私自身、内藤氏の思考に大変共感したので少し長いが、引用させていただく。

『建築的思考のゆくえ』著:内藤廣
Ⅱ 建築へのまなざし
不完全さと想像力

『世の中には「伝わりやすいもの」と「伝わりにくいもの」がある。
「伝わりやすいもの」は伝わりやすいのだから、より一般化される。「伝わりにくいもの」は伝わりにくいのだから、なかなか理解されない。日本文化の、とりわけ日本建築の本質は、具合の悪いことにこの「伝わりにくい」ものの中にある。』

『そもそも日本語というのは、論理を記述するにはあまり適していない。(?中略?)日本語の言葉の意味は墨を落としたように渉んでいて、その惨みが繋がりあうようにして言葉や文章が形作られる。言葉は感情の流れの道案内でしかない。』

『建築の設計をしていると、年に何回かは地鎮祭というものに立ち会う。大きい建物であれ小さな住宅であれ、建てる度に地鎮祭を通過儀礼のようにこなしていく。したがって、神主さん、建設会社の人たちに次いで、この儀式に参加する機会の多い職業だと思う。(?中略?)いろいろな考え方ややり方があるのだが、なんにせよ大地というのは人が恐れる対象であることには変わりがない。その恐れの感情をもっともうまく演出しているのは、やはり我々が良く出会う地鎮祭なのではないかと思う。この儀式のすぐれた特徴は、場所の異化、眼差しの変容にあり、日常を切り裂いてみせるところにある。』

『この儀式に出席し始めた頃は、幾つかの約束事に気を取られて馴染めないでいた。初めは緊張もした。しかし、神様を信じているわけでもないし、まあ、行き掛り上の付き合い、という程度に考えていた。しかし、ある程度回数をこなしてくると儀式全体を眺めることができるようになる。慣れというのはこわい。昔は緊張したものだが、今では地鎮祭にのぞむ人たちの緊張する様を冷静に観察したり、かしわ手の打ち方の違いや作法の違いを眺めてしまう。
 冷静に見られるようになってくると、この儀式の持つシステムが見えてくる。最近では、多くの人が経験する割にはあまり注目されることのないこの儀式の中に、我が国の建築空間や風景の本質的な仕組みが潜んでいるのではないか、と思うようになった。』

『この儀式は、産土の神というその場所の地の神様、つまり地霊に対して、地面に手を加えることへの許しを乞うためのものだ。起源は調べてみてもよく分からない。神武天皇の御代とも、それ以前とも判然としない。平城京遷都、藤原京遷都の時ぐらいまで辿っても儀式の記録があるようだが、どうも、はるか昔の弥生時代からの原始的な習俗としてあったのではないかという気がする。
 なんにせよ、今日まで受け継がれているのは、それがこの国の風土に生きる人たちの生活感情にうまく合っていたからだろう。特定の宗教というよりは、共同体の在り方をベースに、しきたりや生活の知恵として出来上がってきたもののような気がする。こういう儀礼をした方が、みんなが納得できるし気分もスッキリする、といった類のもので、それがいつの頃からか神道の儀礼の中に取り込まれ、様式化され、神官が差配するようになったのではないか。』

『幾度も立ち会ってくると、地鎮祭の出来・不出来というのも分かってくる。お座なりな形式だけの祀りごとだと、滑稽さのほうが目についてしまう。これはひとえに神主さんの技量、その場を設える建設会社の臨む態度による。良い地鎮祭に出会うのは、10回に1回ぐらいの確率だろうか。良くない時は、決まり切った手順で進んでいく退屈きわまりない時間だ。』

『ところが、たまに出会う良い地鎮祭は、その場所の空気の質が変わる。周囲の様々なものが透けて見えるような不思議な感覚。自分自身がまわりのものの一部であるような感覚。すばらしい絵画や音楽、演劇や舞踏から受けるものにも通じるものがある。』

『ここでは儀式の間の時間と場の意味だけが存在している。目に見える確固たるものは何もない。閾(しきい)をわずかに示す頼りなげな細い竹や注連縄といった些細な装置があるだけだ。それもわずかな時間だけ意味を持つに過ぎない。儀式の前、閾(しきい)の中や祀られている物は何の意味も持っていない。極端な言い方をすれば、誰が足を踏み入れてもかまわない日常空間の一部だ。降神の儀で神主さんが長く次第に強く「オーッ」という声を上げた瞬間から、昇神の儀で徐々に消え入るように「オーッ」と言うまで、この場所は神が宿る聖域となる。粗末な竹で囲まれただけの空間が、特別な意味付けをされて犯すべからざる空間へと変容する。注連縄は突然のように結界となって、見えない閾(しきい)がそこに出来上がる。』

『この空間の在り方はわれわれの文化の様々なところに見出すことが出来る。ケとハレが入れ代わる祭りの仕組み、祭りの時の鳥居の役割、能舞台の四隅の柱、民家の生活様式、数寄屋などの空間の作り方、茶室とその露地、さらには都市の作り方など。どれも人の眼差しや行為によって物質の意味付けや空間の質が大きく変容する。そこにある建築的な設えは、意味を与えられなければ何の価値もない道具立てに過ぎない。』

『建築という価値は、それを形作る壁や屋根といった物質と、その物質に取り囲まれた空間とに二分できる。あらゆる建築をめぐる論議はこの二つの価値の間で揺れ動いてきた。近代に於いては物質派が優勢を占めてきたことは言うまでもない。物質を中心に物事を説明する方が、分かりやすいし効率も良い。つまり、伝わりやすい。』

『ここからは私自身の考えだが、建築の根元的な価値や力は空間にある、と思っている。眼差しによってすぐに消費されてしまう形とは対照的に、空間の価値は消費されにくい。その場所を実際に体験してみなければ分からない。そこに身を置いて、時を過ごしてみなければ分からない。時とともに移りゆく空気の質感を感じとらねばならない。目だけではなく、五感の総てを使って感じ取らねばならない。さらに、より深く感じ取ろうとすれば、身を置いている瞬間ばかりでなく、そこに流れ込んできている過去の時間、これから流れるであろう未来の時間までも想像しなければならない。』

『我々の文化の中で育まれてきた建築の土壌は、物質よりも空間、さらに空間よりも時間の流れに重きを置いてきたのではないか。建築や庭をめぐる文化は、物質としての存在感よりもこうした空間そのものの質を、さらにはその裏側にある時間の感覚を体内に呼び覚ますことを求めてきた。だから物質はそれらの手前にある手がかりに過ぎない。そのため、時には地鎮祭の頼りなげな注連縄のように、物質を存在の瀬戸際まで追い込んで、そのことをあえて強調したりさえする。いわば物質の非物質化こそが、この風土に培われた建築文化の底にあるのだ。これは伝わりにくい。一般化もしにくい。何故なら、感じ取る主体の想像力、眼差しの深さによって、その到達点が違ってくるからだ。』

『それは「不完全崇拝」にささげられ、故意に何かを仕上げずにおいて、想像の働きにこれを完成させる‥…』

(以上『建築的思考のゆくえ』著:内藤廣 王国者より引用)

 古事記上巻の始め頃に「いざなぎのみこと」と「いざなみのみこと」は天つ神の仰せに従って「おのごろ島」に天降って「天の御柱」を見立て、「八尋殿(やひろどの:広く立派な宮殿)」を見立てた後に、お互いに愛を誘う言葉を掛け合うくだりが見える。内藤氏が洞察されたように、我が国最初の建築物は実際に建築された物では無く、実際に建てた物として見立てられた「柱」と「御殿」ということになる。物質よりも空間を見立てる想像力が神道の根底には流れていることが古事記からもうかがえる。

 伊勢に鎮まります神宮は20年に一度全く同じ形を引き継ぐ意味で隣接する敷地に本殿を新たに作り替える式年遷宮が行われる。塗装や装飾を廃した簡素な米倉の様な高床式の本殿。新築の頃は麗しく光り輝くような黄金色の茅葺きの屋根と檜の香り立つ本殿は時間の経過と共に素の素材ゆえの経年変化をもって、我々に時間が過ぎ去ったことを諭しているようにも受け止められる。

 『より深く感じ取ろうとすれば、身を置いている瞬間ばかりでなく、そこに流れ込んできている過去の時間、これから流れるであろう未来の時間までも想像しなければならない。我々の文化の中で育まれてきた建築の土壌は、物質よりも空間、さらに空間よりも時間の流れに重きを置いてきたのではないか。』と、語る内藤氏の考察は神宮式年遷宮の意義をも的確にとられた様に感じた。

 EricClaptonという英国のミュージシャンがいる。60年代後半から70年代にかけてはロック、ブルースギターを世界に広めた先駆者・張本人であり、見事なギター裁きを見せる腕っこきで、ニックネームの「スローハンド」は「ギターを弾く左手があまりにも早くて止まって見えたから」といわれている。60年代にロンドンの街中の壁には「Clapton is Got」(クラプトンは神だ)と落書きされたという、ロックギタリストにとっては伝説の「生き神様」の様な存在で、当時は音楽界のみならず社会的にも大きな影響を与えた人物である。

 Claptonの功績は数え上げれば切りが無いが、「Cream(クリーム)」という三人編成のバンドでそれまではラジオ向けの3?4分間のブルースやロックンロール、ポップスを混ぜ合わせてJazzの持つ即興音楽性、いわゆるアドリブ演奏を導入して、決まり切ったダンスミュージックに即興性・攻撃性・芸術性豊かなコンテンポラリーミュージックのフォーマットを与えたところにあると私は思っている。Claptonを必要以上に神格化し過大評価したり、逆にけなしたりする人もいるが、虫の目で見た大樹の一葉をあげつらっているようにしか感じ得ない。時代の流れと音楽の変遷を鳥の目で俯瞰したときに、本質的な評価が出来るのでは無いかと思う。

 90年代に「Unplugged」でグラミー賞を受賞してからはアコギで弾き語りをするナイスミドルのおじさま姿の方が一般的に知られていて、若い女性の中には「Claptonってギターも上手いのね」とのたまって、おやじギタリスト達を卒倒させたようだ。

 そんな伝説のギタリストのライブを若い頃東京で初めて体験する機会に恵まれた。85年頃だったと思う。その当時の私はそんなにClaptonを入れ込んで聞いていなかったのだが、伝説のギタリストを初めて体感できるのを楽しみにして会場に行ったものだ。Claptonの愛用する50年代のビンテージのストラトキャスターは当時のモデルとしてはレアカラーである黒色で、その優れた音色から「Blackie(ブラッキー)」と名付けられ、Claptonの象徴するiconとして、ギター小僧達にとってはあこがれのギターであった。何を隠そう、私が人生最初に買ったギターはこの「Blackie」そっくりのコピーモデルであったので、オリジナルのビンテージギターというものはどんな音色がするのだろうと思って好奇心を膨らませていたことを今でも記憶している。

 私が初めて体験したEricClaptonのライブでまさにその名器・Blackieの音色で『その場所の空気の質が変わる』体験をした。
 Claptonのライブでは中盤くらいにスローでブルージーな長尺のギターソロを弾く曲がセットリストに配置される。そのときは「Same Old Blues」だった。後年には「Old Love」だったりする。Clapton自身、約二時間のライブで1曲だけ、全身全霊を込めて弾くギターソロの曲を決めているのでは無いかと思う。

 ギターソロに入ったClaptonは徐々に自分自身の中に入っていき、あたかも観客はそっちのけにして完全に自分の内部に入り込んでしまったような気がした。つまり、観客の為に、観客を喜ばそうとして弾いているのでは無く、何か別の次元で弾いているようだった。そしてギターソロは徐々に熱を帯び、感情のままに掻きむしられるようなフレーズのリフレインで佳境を迎えたその瞬間、代々木国際競技場の空気の質は一変して青白い光の空間に包まれた様な気がした。ライティングの効果による明暗ではなく、「空気感として」である。今でもはっきり覚えているのは、その時ふと周りを見渡したらすべての観客が置いてきぼりをくらった子供のように立ち尽くしていた風景である。私だけでは無い、数多くの観客が固唾をのんで異様な空間に立ち尽くしていたのだ。私はその時に「あーClapton、ひとりであっち側にいっちゃったよー」と感じたのを覚えている。Claptonは別の領域、つまり自分の内なる魂の領域で音楽を奏でた瞬間、空気の質が変わり、Claptonはあたかも巫女が祭祀で神がかりになって神の託宣を告げるが如く、神が憑依して自我では無く無我の境地でギターを弾いているかの如くであった。ギターソロが終わり、トランス状態から我に返ったように曲のコードバッキングに戻ったClaptonを見て、数千人の観客も我に返ったように意識を取り戻し、拍手喝采を送った。スタンディングオベーション。その後、何事も無かったようにClaptonは歌の続きを歌い出したのである。

 私はこのとき、なぜクラプトンが神と呼ばれたのかわかったような気がした。ロンドンの街中の壁に書かれた「Clapton is Got」(クラプトンは神だ)は、神技的なギターテクニックのこともそうであろうが、本質的に「音楽の神様と繋がって音を奏でる霊媒」として「Clapton is Got」(クラプトンは神だ)と感じたのでは無いだろうか。読み方は一緒であるが「神技」と「神業」はその与える意味が違うように私は感じる。Claptonよりも巧いギタリストは今や数多くいる。しかし、かれらのすべてがClaptonの様に別次元の領域に入って音楽を奏でられるかどうか、空気の質を変えられる、人を感動させる演奏が出来るかどうかは別である。いくら技巧が優れていても、その領域に入って周りの空気感を変える、あたかも神様が顕現したような場を作り出せるか否かが、その分かれ目であろうか。しかもClapton自身もいつでも自由自在にその領域に入って演奏できるものではないであろう。
 本人はそんな意識すら無いと思う。「ただ、自由気ままに、思うがままに弾いているだけさ」とおっしゃるに違いないと思う。

 雅楽に陪臚(ばいろ)という曲がある。不思議な言い伝えがある曲で、古来より武人に好まれた曲でもある。舞も伴う曲であるが、いざ戦の出陣の時、陣地にてこの曲を繰り返し繰り返し演奏し、七返に及ぶときに「舎毛の音(しゃもうのこえ・しゃもうのね)」があれば勝ち、無ければ負けるという。その舎毛音とは「仏力神通を施すとき、白毫から光明を放ち毫音が鳴ることをいう」と伝わる。聖徳太子はこの曲を奏して物部守屋の軍を破ったとか、源義家は出陣のたびにこの曲を貴んで演奏したという。
 この「舎毛音」がどのような音なのか伝わっていない。

 私の想像であるが、「舎毛音」とは、生死を賭けて戦に望む直前、極限の状態にある兵士達の魂を高めるために、魂を込めて繰り返し繰り返し演奏する内に奏者達がトランス状態になり別次元の領域に達し、えも言われぬ倍音を伴ったふくよかな音の層があたかも光明を放ったようにその場の空間の色彩を変える、その音の事では無いだろうか。
 その無我の境地に達した音を聞いた侍達は、同じくこの世の物では無い境地を体感し、そこに神仏の顕現を感じ、必ずや御加護があると信じたから自ずと士気が高揚し、生死を超越した働きを成すが故に勝ち戦となり、必勝のジンクスを伴う曲となったのでは無いか。と、勝手に推測している。

 陪臚を七返というと1回が5分位の曲だから30分くらいであろうか。
 富山県神社庁に雅楽部があるので(私も所属しているのだが)一度試してみたいと密かに考えているのだが、多分、「舎毛音」が出る前に演奏者が「音を上げる」に違いないと思う。

『良い地鎮祭は、その場所の空気の質が変わる。周囲の様々なものが透けて見えるような不思議な感覚。自分自身がまわりのものの一部であるような感覚。すばらしい絵画や音楽、演劇や舞踏から受けるものにも通じるものがある。』

私が神職として一生をかけて到達したい境地がここに綴られている。

(平成24年4月11日 禰宜 舩木信孝 記)