由緒不詳。中間島村は常願寺川の中流左岸に沿って開けた土地で、現在の藤ノ木地域にある部落は江戸中期から後期にかけて開発されたものが少なくない。しかし、江戸初期に作成された「越中四群絵図」を見るとすでに朝日村、藤ノ木村、貫田村、日俣村とならんで中間島村も描かれている。江戸時代の初期には戦国期以来の在地土豪層あるいはその系譜をひく本百姓層が用水の開設や新田開発を行い、既に活況を呈していた。