由緒詳細は不詳ではあるが従来大石をもって神実(かむざね)となし、社殿を建立しなかったという。天照大御神は従来現地村社の祭神。建御名方命は五条通り4番地摂社、諏訪社の祭神であるが、この宮は明治初年の水害のために河川の水底となったため、村社神明社に移転し、合祀される時に社殿を建立したと伝わる。現在の本殿は昭和49年10月に新川神社の本殿を移築したものである。平成10年10月、拝殿改築竣功する。
(以下藤ノ木郷土史より)
創立不詳なるも古老の言によれば、富山地鉄本線が常願寺川左岸堤を渡り切ると間もなく鉄橋から上流へ50m辺りの川の中洲に大きな杉の枯木が立っていた。(昭和43年頃まで)これは常願寺川が、大洪水の折に山からの流木が突立ったものでなく、その昔その周辺は、現在の日俣部落の先住地であり、その日俣部落の氏神である諏訪社の境内に厳然と根をはり聳えていた、杉の神木なのである。
昔時日俣部落はこの諏訪社を中心に25、6戸の集落であった。
安政5年の大洪水と氾濫に押し流された。この部落の大半が、中新川郡五百石方面に移住し、引越し日俣部落を作ったが、もともと移住をしなかった2戸の人達が明治25年頃まで、諏訪社を護っていたと云う。
当時の常願寺川は、その諏訪社より相当東寄りを流れていたものと考えられるが、度重なる水害を恐れて、現在の日俣(旧島村大字日俣五条通り四番地)の地に鎮座したものである。
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