(拝殿掲示の由緒書きより抜粋)
わたくし達の住むこの地方は、常願寺川の流域の扇状地帯にあり、古代より新川の庄と呼ばれ起伏の多いところであった。しかし俗に「あばれ川」の名称がある常願寺川の度重なる氾濫にあってきたが、有史以来の安政五年の洪水により平坦な堆積地帯になったと伝えられる。
以前は、この地の名称は「上畠村」と明記されており、地内には餅田・苗代・道古・上畠の各字割りがあり新川の庄の中で広大な地積を占める中核となってきたのである。
上杉謙信の侵略に対抗して犠牲になった人々を弔った浄土寺(現在の正願寺)の経堂に因み、それ以来この地名で呼ばれた。
古代は、山岳信仰が篤く立山大権現の神が鎮座する立山山頂に登はんするための要路となり、加賀藩政の時代には岩瀬の御蔵に上滝方面納入道路として、米を積んだ馬の往来に賑わったと伝えられる重要な土地であった。
詳細は不詳なれど昭和2年、社殿維持困難に付き、一時郷社新川神社に合祀されたが、昭和45年4月、新川神社より元の経堂に本殿新築し以来、経堂の鎮守神として崇敬されている。
昭和57年より実施された都市計画整理事業により、神社の移転が必要となるや造営の気運がもりあがり現在の方形の敷地に社殿を建立したのである。
造営に伴う神事
地鎮祭 昭和61年10月19日 午後1時
上棟祭 昭和62年2月29日 午後1時
御遷宮 同年4月 8日 午後6時
慶賀祭 同年4月18日 午前10時
忠魂碑 碑誌
さきの太平洋戦争で当時の経堂地区13戸の中から4名の戦死者が祖国のために殉ぜられた
戦後平和な日本は豊かな経済大国として繁栄し 特に当地区においては土地区画整理事業の完成によりその環境が一変した この時に当り 改めて我が国の進展の礎となられた戦没者の遺徳を偲び これを顕彰すると共に 美しく住み良い郷土の発展と 恒久の平和を願望する心を後世に伝えるため ここに鎮魂の碑を建立するものである
平成四年十月 建立世話人一同
この碑は昭和二十年八月十五日現在経堂地区に在住した関係者で建立した