(常盤台神社二十年史 常盤台神社奉賛会編S63.11.30より抜粋)
常盤台神社の祀り神
常盤台神社には誰が祀られているのでしょう。それは天照大御神です。天照御大神とはどんな神様なのかと申しますと、日本の神話では皇祖神といわれる女性の神様なのです。別の御神名を「オオヒルメムチ」ともいわれています。神話学的には「日」の神格化された太陽神のことなのです。天照御大神の御神名は、天上にあって照らされる偉大な神様の意味なのです。また別の名の「オオヒルメ」の「オオ」は敬称で「ヒルメ」は太陽の女神「日女」だとも、太陽の妻「目妻」だともいわれています。私達の祖先が古くから「初日の出」「朝日」を拝む太陽信仰の風習は現在も残っているのはこのためなのです。このように皇室の祖先神である天照大御神は、やおよろずの神々の中で最も尊い神として三種の神器の一つ「八咫鏡」 (やたのかがみ)を天照大神の御霊代(御神体)として祀られているのです。
『豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、是(こ)れ、吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。
爾皇孫(いましすめみま)、就(い)でまして治(しら)せ。行矣(さきくませ)。宝昨(あまつひつぎ)の隆(さかえ)まさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きわま)り無(なかり)けむ。』
これは「日本書紀」に善かれている天照大御神の御神勅です。天照大御神のお孫さんである「ににぎのみこと」が群神を随えて、日本の国に遣わされた時に三種の神器と共に、稲穂をお渡しになりこの神勅をくだされたのです。つまり、その内容は以下の通りです。(意訳)
「あなたがこれから行って治める国土は、今は葦がいっぱいに生い茂ったままの荒地ではあるが穀物がいつも豊にみのる国です。これを苗代に稲穂をまいて苗を育て、耕した土地に田植えをし、早苗が育ては草取りをし、虫を駆除して肥料をおき、成長すれば稲苅りをしてお米を収穫して来年の種を残してというように、それを倦まず怠ることなく年々うち続けていけは、その葦原がやがては黄金色の稲穂波打つみのり豊かな美しい瑞穂の国となる。その収穫したお米で国民の命を豊かに養い育てるならば、瑞穂の国日本は永遠に栄えるのだよ。さあ、行ってしっかり治めなさい」
こうした励ましのお言葉と共に高天原からお降しになったのです。その時の稲穂は天照大神がご自分の斎庭で田植されお育てになって稲苅りされたものなのです。天照大神がお孫さまの「ににぎのみこと」にいわれた「お米で民を養い育てなさい」のお言葉をそのまま現在うけついでおられます。宮中で天皇陛下がお田植されるお姿を拝されるのもそのためなのです。
常盤台神社にお祀りしてある天照大御神とはどんな神様なのか、大方おわかり頂いたと思いますが、皆さんの家の神棚におまつりされるお神札(大麻)は天照大御神さまの大御霊 (おおみしるし)として伊勢神宮で奉製されたものです。それを神社本庁が委託をうけて全国の神社庁からお配りされるのです。
常盤台神社にはもう一方お祀りしてあります。常盤台の守護神である「土産神(うぶすながみ)」がお祀りしてあるのです。この神様は土地の守護神であると共に、土木、家相に関する神様で信仰すると幸福が授かるといわれています。皆様が家をお建てになるときに行われる地鎮祭、また棟上式を行って、家の安全と幸福を願われるのはこの神様なのです。その大御霊(おおみしるし)としての御神札を皆様にお届けしているのです。
昭和三十六年頃の常盤台
常盤台が、オギァと弧々の声をあげたのは昭和36年(1962年)10月1日です。
常盤台という団地の名付親は、団地造成に当った株式会社建興杜社・長福山与三松氏だともまた元県議入江松次氏ともいわれていますが、恐らく両者合議の上での事と思われます。
荒川神社の氏子となる(西新圧)
故郷を離れ、風土にも慣れ、住めは都の愛着心も芽生えてきた頃になって第二の故郷としての意識が定着してきた頃です。その日ざめとともに生れ育った故郷の永く培われ育って来た信仰生活の環境が郷愁となって、誰からともなく鎮守の神社を求める声が擡頭して来たのです。けれど僅か百世帯余の当時では神社建立等、とても望めそうにありませんでした。そこで当時の田畑町内会長を始めとして町役員が相談の上、41号線(当時8号線)をまたぐ煩わしさを忍べは距離にして700米西方に由緒深い荒川神社が有ることを知って、氏子として受入れ頂くよう申入れましたところ、心よく受諾されました。
荒川神社の祭礼は春祭り、秋祭りが年々行われては居りましたが何か物足りぬものがありました。俗にいわれる「貰いまつり」のせいかも知れません。そこで、せめて子供達に夢と、祭りの楽しさを与えねはと、昭和39年4月19日の荒川神社の春祭りに合わせて、町内有志相寄りて「子供たる御輿」を造り町内の電柱から電柱にしめ縄を張り廻らし町内あげて大いに祭り気分を煽りました。夏には婦人会主催による「盆おどり大会」が催されました。
思えば荒川神社の氏子加入が、引金となって「子供たるみこし」「盆おどり」「夜店」と、言わば故郷恋しの潜在意識のなす業とも思われ、愈々神社建設の願望が強くなって来たのです。
神社建設のあらまし(神殿の譲受)
昭和四十二年も押し迫った暮のことでした。新庄新町に鎮座されている橋宮神明社が、此度建替えされることになって、旧神殿を譲ってもよいという話が申入れられ、早速受諾することに決定、その受入準備の態勢作りに、寒さも吹き飛ばすような熱心な討議が行はれたのです。
いよいよ四月二十一日は幸い天候も良く一同打揃って橋宮神明社に神殿受納し、四月二十八日の夕刻、前一区の会長田畑定之氏宅では舟木宮司の指示によって白練絹に覆はれた御神体が錦の玉座に安置されておりました。夜のとばりもおりて暗くなる頃から多勢の氏子参列の見守る中、舟木宮司の朗々たる祝詞の奏上、御神体の御霊入れの儀式が行われました。やがて舟木宮司御神体を奉戴みやびやかな雅楽の先導で、厳かに御神殿に遷座されました。当夜は浄めの小雨がふっていました。
明けて四月二十九日、常盤台神社初の春季祭典ということで町役員外氏子一同参列、舟木宮司、司祭によって厳かに祭典が行はれました。
郷土愛の発露というべき、神社建立の尊い事業は、恐らく、新開地のおよそ団地としては、富山では囁矢であったと思います。その歓声を聞きながら、次代を背負う児童達よ、郷土愛に燃えて欲しい、そして若木のように、すくすくと育って、力強く根付き、大樹となって、常盤台の礎石たれと、氏子一同、心に願った記念すべき日でありました。時に昭和四十三年四月二十九日です。
荒川経堂の地名由来
常盤台神社の地番は先にも書きましたが荒川字経堂下割48ー137番地です。この荒川経堂の地名由来は痛ましい史実に困しているようです。新庄町史によりますと、「元和元年(1615)洪水あり、田地二ケ所となり、其川筋を中川と云い、其川東に向新庄村が出来、明暦二年(1656)又洪水あり川筋を荒川と云い其川西を荒川村とう新庄三ケの名之より始まる」(原文のまま)
つまり当時から常願寺川は荒川又は新川と呼ばれて洪水ともなると玉石大のものがどんどん押し流れ川筋も変って田地も分断された様に思われるのです。荒川はそうした歴史的な変遷によって出来ましたが経堂という地名はこれも富山史跡案内によりますと、元亀三年(1572)上杉謙信の上洛を阻むべく一向一揆が西新庄から田中町一帯で相対し双方多数の戦死者が出て、びや川の流れも血に染まったといわれます。一向一揆は敗退し激戦地であった現西新圧正願寺前に上杉謙信が首実験をしてその首を埋めて石塔を建てたのです。それを薄地蔵尊と呼びました。更に経堂が建てられたこの地区を経堂と呼ぶようになったのです。現在は狭くなって国道の南側にその名を残すのみとありますが且つては常盤台も経堂地区であったのです。常盤台は俗称で皆さんの土地登記簿にも字経堂00番とはのっていますが常盤台なる地名は載っていません。