昭和40年前頃までの荏原の祭りは、向新庄地区の自治体活動とふれあいながら向新庄地区の産土神である志麻神社の鎮守の氏神を崇敬し、親しみ、毎年4月22日(現在20日)・10月20日の祭礼日に土地の安全を祈願し、家庭では赤飯を炊き食卓を賑やかし、祝い祭りを行っていた。この頃はお正月とお盆を指折り数えて待ちわびていたようにお祭りの来るのを一番の楽しみにしていた。親戚や親しい人達を招き団欒し、祭りの前日の宵い祭りから境内に並ぶ露店などで遊ぶ向新庄や荏原の子供達の歓声が懐かしく思える。昭和40年代に入ってからも経済高度成長が続き、県内では富山市内への人口が集中化し核家族化が進み民間企業による住宅団地の造成が盛んになり、荏原地区もその波及により住宅が増加し、世帯数・人口が急増してきた。
このような社会情勢の進展に伴い、当町内の組織活動の活性化を図るため、年間行事の一大「イベント」として中越パッケージ(株)内の稲荷神社(元・荏原製作所富山工場が建てたもの)を祭事し、毎年4月25日を祭りの日と定めていた。PTA・婦人会などの援護、指導により子供達のタル神輿が稲荷神社前・大阪屋ショップ横を起点に町内を練り歩き盛り上げ、町に活気がみなぎるようになってきた。その後(昭和52年以後)同好会(30歳から40歳代の有志)が花神輿を造り児童の神輿と共に練り歩くこととなって、祭が一段と華やかになり盛り上がるようになった。
このような状況下において、町内住民の協和と協働感をより以上に深め、更に新しい町づくりを目指すため荏原の神社を建てる気運が広がり始めた。昭和54年4月1日定例総会に建設準備委員会の設置を諮ることとなり、各班からl名づつ準備委員が選出され、昭和54年12月16日臨時総会開催までの間4回の準備委員会がもたれた。その準備委員会の経過報告を臨時総会の主な議決事項として提案された。
地鎮祭と春祭り
昭和55年4月15日午後6時、神社地鎮祭を新川神社神職船木信光宮司により執り行なわれた。引き続き同年4月27日(日)春祭りが行われ、神社敷地内より子供のタル神輿、同好会の花神輿が町内を練り出した。
祭神と御神体
祭神と御神体をどうするか、または、どこから勧請(神の分霊を他の場所にもまつるを請うこと)するかを検討していたところ、志麻神社の氏子総代より「荏原町内は、元々上新川郡島村向新庄地内であり、産土神(生れた土地を守護する神)が志麻神社の祭神として祭祀されているので勧請されたい」との申出があったので志麻神社から勧請することになった。御神体については、神殿造営と同時に鋳造(砲金、球型)鏡を造作。分霊の遷座の祭祀(志麻神社の祭神の分霊を荏原の社殿にお移し祀る)は、昭和55年11月2日午後7時から志麻神社において神主船木信光宮司により執り行われ、建設委員数名が白衣に身を包み、お出迎えして半俵川公園遊歩道を通り、荏原町内を御巡行された後、午後10時に新社殿に入られて厳かに祭祀が行われた。
慶賀祭と秋祭り
昭和55年11月3日午後8時より前日の遷座の祀に引き続き慶賀祭と秋祭りが盛大に行われた。箏楽演奏(奏楽)の奉納、花神輿が町内を練りまわり祭り一色に盛り上がった。
〔神社の名称と祭礼日の決定〕
昭和55年12月神社名「荏原神明社」、祭礼日は4月29日春季祭り、11月3日秋季祭り、1月3日歳旦祭とすることに決定した。