水橋 中馬場 神明社 八幡社 由緒書

水橋 中馬場 神明社 水橋 中馬場 八幡社

●神明社

鎮 座 地
富山市水橋中馬場316番地
氏子町内会
中馬場
祭   神
天照大御神
祭   日
春祭 3月31日
秋祭 10月31日
由緒沿革

神社についての詳細不詳。

境内地・宮塚古墳

 中馬場の宮塚古墳と若王子塚古墳は数10メートルを隔てて東西に並んで築かれている。宮塚古墳は現在古墳の頂部を削って神明社が建てられているが、一辺が約20メートル、高さ2メートル余りの方墳であったと考えられる。一方、若王子塚古墳も東側を大きく削り取って社殿が建てられているが、こちらは直径17~18メートル、高さ6~7メートルの高く盛り上がった方墳である。これらの古墳群はおそらく5~6世紀ごろに築かれた物であろう。

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中馬場村の起源

 戦国の頃、唐人兵庫がこの地を領して小出に城を築いていたが、上杉謙信が越中攻略後は上杉弥五郎義春に所管せしめていた。其の後、上杉景勝の家臣上条景義が所領米山城(越後刈羽郡)を没収されたので其の養子(旧姓畠山氏)と共に此の地にきて開墾して地名に姓をとって上条と称したと伝えられる。慶長九年に加賀藩が十村制度実施にあたり旧白岩川と古川(現小出川)にはさまれた地域三十八ケ村(旧上条村相ノ木村)を上条郷と称して行政区割とした。(上条の地名について条保制度による異名とも伝えられている。)明治二十二年四月、町村制実施に際し、清水堂、金広、中馬場、北馬場、平塚、専光寺、高寺、田伏、佐野竹(以上旧上条郷、上曲淵、小出(旧下条郷)西光寺、池田町(旧池田郷)の十四部落にて上条村を構成し、大正三年に西光寺と池田町(入合地)を合わせて大正村と改称した。昭和二十九年四月に旧水橋町、旧三郷村と合併して新生水橋町の発足を見るに至った。

中馬場・地名の由来

 白岩川の曲流につれてこの地に広大な荒れ地があったらしいが戦国の初期に豪族細川宗十郎が竹内の館を構えた折りに白岩川の対岸の地を見つけて馬場とされたと伝えられる。竹内の館は上杉謙信に攻略され後に佐々成政に焼き払われた。

●八幡社

鎮 座 地
富山市水橋中馬場331番地
氏子町内会
中馬場 北馬場 金広
祭   神
譽田別命
祭   日
6月9日
奉仕神職は滑川の旦尾宮司家と舩木宮司家と隔年にて奉仕する。
由緒沿革

 金広、北馬場入合の社にして遠く戦国時代に創建され、更に寛正2年白岩川満水に付き、水神として勧請せり。又、上杉謙信が竹内館を改めし時、この宮の地を本拠地として附近一帯を陣地として東方弓庄館よりの軍勢を防ぎしを云う。
 また、中馬場の南側の村・金広は戦国時代に細川氏の家来の金広某がこの地に屯してこのところを領していた。現在金広、北馬場、中馬場の三部落が管理している八幡社は其の守護神と伝えられる。(水橋町郷土史より)

若王子塚(わくおうじづか)古墳

 この古墳は、白岩川(しらいわがわ)中流右岸にある県内最大級の円墳(直径46m)で、この西約40mには宮塚古墳があります。南側にも直径11mの円墳がかつてありました。
 古墳の周辺や南側の水田地帯には鎌倉~江戸時代前期の大集落「水橋金広・中馬場遺跡」が広がっています。大溝で方形に区画した屋敷地内には、掘立柱建物や土抗井戸を配置しています。安土桃山時代の土抗からは国内で初の完全な厚板状双六盤が出土しました。
 戦国時代には北に小出城(こいでじょう)、南に仏生寺城(ぶっしょうじじょう)、竹内館(たけのうちのやかた)があり、本遺跡は城館(じょうかん)として重要な役割を担っていました。160基以上もの井戸のうち、江戸時代前期の井戸の水溜めには農具の木摺臼が転用されていました。臼の側面には漁具の「ヤス」などが線刻されており、白岩川での豊漁を祈願したものと考えられます。遺跡は、中世には城館、江戸時代前期には川魚漁や新田開発による米作りを行う集落へと性格が変化したことがわかります。
(平成15年11月 富山県教育委員会 富山市教育委員会 立看板文面転載)

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