高堂村について
この村は天正年中まで仏堂を高堂(たかんど)と呼んだとのことに因み、村名も従古大きな仏堂があった故の名であろうか。また、一説には飛騨の国の高堂城主(源氏方末孫)の家臣が来て開墾村名になったものか、下新川郡や砺波郡にも高堂村あり、皆末孫なる由伝わっている。
開拓者覚左ヱ門氏と云伝わる。(現在宮の裏方に居屋敷あり)
また、孫七なる人、金尾新境にあり、今尚古屋敷の小字名あり。昔、孫七氏の居屋敷なりと其他小字寸臼大割(界目川岸沿いに)にも二、三軒ありたる由、
何れにしても三郷村随一の水利に不便な所で、しかも部落は散村の形態ををしている。三郷用水掘鑿以前には水田地として見るべきもの無し。只特記すべき事項に国分寺尼寺と旧家山本宗兵衛一家の事なり。昔士として美名を有せしが戦利あらず、辻の高原から定住地を高堂村に定め周囲に壕を築き土塀をめぐらし五反歩の敷地内に氏神を祭りて祭典怠り無く営み来れる事なり(現在尚守護神の礎石と元禄以降の故人の法名保存せられ)三郷村内唯一軒の海岸寺檀家なり。今から二百二十年前番頭名から清左ヱ門氏金尾から富太郎家清水堂から吉三郎家、入江村から正三郎家、開発村から長三郎家、小路村から清次郎家等入百姓とて今日の隆昌を見ているも上条地内、曲淵地内に十六名の草高が白岩川河身の変更にて切断され飛地となった事は残念である。
古文書としては文化年中に村社造営に際し寄進の額(板書)今尚御宮の拝殿に掲げてあり、当時は肝煎宗次郎(富太郎)組合頭清右ヱ門とある。
三郷の神社について
三郷地内の神社の初めは何れも池田郷、市田郷、入部郷、特に代表的なものの郷士の墓地が進化して郷の惣社として創設され、尚続いて各部落でも個人的な稲荷社や祇園社、諏訪社等が何時しか部落の氏神様として祠を作り祭典が行われていたが、徳川末期頃から高原系に転向され天照大神を祭主とする神明社が各村に創設されたもの。従って御神躰にして森や林や又は大木に神様のお降りを願った諏訪林、地蔵林、春日林、権現林も宮の始りで市田袋の大桜や新堀の大槻、加茂社の大杉、伊勢屋日吉社の大辻の榎、肘崎村諏訪社の大森等、明治の時世まで面影をとどめた。すなわち、老樹巨木にしめ縄を張り、神木と呼び神を奉っていて祠を必要としなかったが、石玉や人形等に神様のお降りを願ったものは小さな伺を建立していた。ところが文政年間頃から本殿と拝殿を兼ねた社殿の新築が各村に行われ其後、幾度改築を見て今日の高峯建物へと発展したものである。
(以上 水橋町郷土史 第二巻-旧三郷村編-より)
昭和40年9月現社殿に新築する。