富山市猪谷(旧上新川郡大沢野町)素盞鳴社 由緒書

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鎮 座 地
富山市(旧大沢野町)猪谷1627
氏子町内会
猪谷
祭   神
素盞鳴尊
祭   日
春祭 4月5日
秋祭 10月5日
由緒沿革

 太古の昔から新しく土地を開き「むら」をつくる時は必ず自分達一族の祖先(氏の上)を祀った。これが日本における神社の始まりである。東猪谷の鎮守の森である素盞鳴社の勧請された年月は不詳であるが古老の記述によると数千年前この村に土屋野(トヤノ)様という豪族が山麓に居を構え子孫繁栄を祈念するため守護神として牛頭天王(ごずてんのう)を祀ったのが始まりで明治維新の際八坂神社と称し更に昭和18年素盞鳴社と改称された。
 昔、飛騨から流れてくる川が宮の辺りに波打ちよせ、小野篁(おののたかむら)が通行の際飛騨山脈より流れ来る神通川の水が神社の辺へ打寄せていたので、この水で御手を洗い清め此の神殿へ参詣したと伝えられる。(キラズの山麓にトヤノの地名があり土塁あとがある)
 大昔より鎮座まします神殿を二十年毎に遷宮し奉る儀式があり、その模様も漠として詳かではないが、二十年ごとに神殿を新築し古き宮殿を焼清したといわれている。その後、元禄年中前田大納言利家公が加越能の太守として此の地を治め、飛越の国境東猪谷に関所を設け加賀金沢城より御番役が派遣される様になり、以後それ等武士の参画により御遷宮の御式には大名行列を模した行列を随行せしめられることになったので、大名加賀行列と称するようになった。本行列は例年行われる春季祭礼の邪霊払いとして行われる獅子舞の道行の笛太鼓に合せるものでしかも芸当上甚だ特異なものであり、我が村独特の舞曲として今日まで伝えられた誇りあるものである。明治三十六年以後は宮殿の新築を行わなくなったので、正しくは御遷座祭と称すべきではないが、昔からの言葉のまま今なお御遷宮と住民は呼んで社殿の修復や建造物の建立などの事業を興しこれに変えて今日まで盛大に祭行され続けている。(参考:ふるさと下夕南部・野菊会編)

24d 百万石大名行列  下夕(した)地区猪谷の素盞鳴尊社で二十年ごとに行われる遷宮行事であり、同社では伊勢の式年遷宮にならって、昔は二十年ごとに社殿を建て替えたという。このような風習は、猪谷の隣の飛騨市神岡町横山にもあり、ここでは境内社のお鍬様の宮を二十年ごとに建て替えている。また、神通川沿いの近村でも小糸・伏木・吉野などにこのような意識がある。
 猪谷素盞鳴社の現在の社殿は、約百年前の明治36年(1903)に改築されているが、このような大きな建物を二十年ごとに建て替えるわけにもいかないので、その後は大正12年(1923)拝殿新築、昭和18年(1943)石の鳥居建立、昭和38年(1963)御輿新調、昭和58年(1983)狛犬建立、平成15年(2003)拝殿屋根瓦葺き替え・畳入れ替えと続けられてきた。行列の趣旨は、普請の間、御旅所へ移っておられた御神体が、神輿で宮へ遣られるのを奴踏み行列で先導するということである。この村は越中と飛騨の境で、藩政時代には加賀藩の猪谷関所が置かれていて、遷宮の行列に関所の役人も随行したので、「加賀行列」といい、明治以降いつとなく「百万石」を冠称することになった。神通川対岸の猪谷(西猪谷)にも関所があって、そこは富山藩領だったので、多分に優越感を持っての呼称であった。コースは御旅所宿を出発して、笛太鼓で囃しながら村内をめぐり、宮へ向かうものである。明治三十六年の記録では、午後六時に関所跡近くの宿の奥三十郎宅を出発して六軒の中休宿を経、宮へ入ったのは午前一時半となっている。
 行列の順序もこの明治三十六年の記録にあって、以後これを典拠として実施されてきた。大まかに、奴踏みの行列、獅子、神輿の順となる。奴踏みは、前箱・中箱・後箱の挟み箱を中心に、先払いや総指揮、一槍・長刀・鉄砲などの警護役が前後に付くものである。
(参考:大沢野町史)

湯釜神事(ゆがましんじ)

 なだらかな山並み。飛騨の水がそそぐ神通川。国境の集落にひっそりと一条の煙。四囲に青竹を立てしめ縄を張り巡らした小さな結界。結界のまわりを数十人の村人が取り囲み、神主の祝詞が鎮守の森にひびく。大沢野町猪谷・素盞鳴社の湯釜(ゆがま)神事の情景である。
 秋祭には春祭のような賑わいはない。しかし村人の多くが拝殿に参集し、従来11月に行っていた収穫感謝祭も併せて行っている。猪谷の湯釜神事は結界内の釜で煮立てたお湯に熊笹で作った「天狗のうちわ」のようなもので神官が周囲の村人たちに振りかける。清められた湯に結界の御幣をちぎり、目や額、首筋などに当てて無病息災、患部の治療を願う。御幣は境内の神木ケヤキにぶつけ、病を持って行ってもらうのだと村人達は信ずる。神事の後は村境に道切りのしめ縄が張られて村内への悪霊・悪病が入り込まないように祈る。村境には県内で数少ない道祖神も置かれて村人たちの恐れも信仰心の偽りのない澄明さがしのばれる。
 湯釜神事は県内では神通川流域の数カ所で見られるだけで珍しい伝承。神通の流とともに飛騨から入り込んだ物だが、神社の20年ごとの遷座、オクワ様信仰とともに伊勢信仰の流が明確だ。(富山新聞 昭和59年10月18日付記事より)

24e 湯釜の起源 (写真は小糸の八坂神社のもの)
 湯釜、湯立て神事の由来は古く、「日本書紀」に「深湯(くがたち)」の記事が見え古代民族の間で広く行われた「神の裁判」の一種。室町時代には湯起請(ゆぎしょう)にと変化し、同幕府の法定証拠の方法とされていた。この流のひとつとして平安時代以降の文献には湯立てのことも見られる。湯立て神事は清めのためと神懸かり状態になり、託宣を聞こうとする二つタイプがあり、神楽が入るところもある。著名な物には岡山県吉備津神社の釜鳴神事、長野県下伊那・遠山の湯立て神事がある。

「道切り」とは

 「道切り」は道祖神、塞(さい)の神と機能はほぼ同様。この呪術の由来は古い竜神信仰に発しており、各地では蛇綱、福井県大飯町では勧請縄、鹿児島県山川村ではトキ(斎)の網と呼ばれている。竜神信仰の起源が示すように綱は引いて回る動的な物から道切り綱のように静的なものに移行。このような変化によって竜神信仰は道切りと変化していった物と見られる。

猪谷村

 越中志徴によると東猪谷は新川郡太田庄に属し、西猪谷は富山領で、東西猪谷とも口留番所があると記してある。口留番所とは江戸時代に他領と接する交通の要地に設けられた小規模な関所のことで、自領から他領へ行き来する物や僧俗を検察、商品の流通を監視し、物資の統制を行い、口役銀などの租税を徴収するのが目的であった。
 神通川の東岸で、宮川・高原川・神通川の合流点の北部不伐(きらず)山の中腹に位置する。地名の由来は未詳だが、河川名に緒ン谷(ししんたに)などもあり、昔、イノシシが多かったので地名となったという。
〔近世〕江戸期?明治22年の村名。新川郡太田荘のうち。加賀藩領。
 加賀藩領から飛騨へ運ぶ米・塩の輸送路である猪谷東街道に東猪谷関所があり,取締りをしていた。その後関所は明治2年に廃止となったが,同4年まで業務が続けられた。建物は猪谷小学校舎として使用されたが、舟渡に小学校を移したので芦生(あつしゆ)の法雲院へ払い下げた。
〔近代〕明治22年?現在の大字名。大正初期までは大字猪谷村と称した。はじめ下夕村昭和29年からは大沢野町の大字。明治当初から小学校分校が置かれていたが昭和44年廃校となり,対岸の細入村と組合立の小学校に通学。大正2年から工事をはじめた三井鉱山の軌道が通っていたが、昭和43年国鉄神岡線が開通して廃止となった。昭和4年三井鉱山の猪谷発電所224kwを建設したが,電力再編成で今は北陸電力となっている。県下で珍しい半僧形の神像が祀られ,関所跡碑がある。今も20年日ごとに行われている百万石行列は関守が教えたものという。

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