現在の本殿は昭和16年4月7日遷座祭する。昭和24年4月7日、屋根修理する。
伏木村社 神明社の変遷 前田宗孝(ふるさと下夕南部:野菊会編)
(本殿新築)
神明社が何時頃建立されたのか、はっきりした記録がありません。神社の周辺に大きな杉、欅、銀杏、一位の木があります。道路の拡幅、神社の建て替え等で何本かが伐り倒されました。それぞれの木の太さから考えますと百数十年を経ていることがわかります。本村神社には、従来神明社、薬神社の二本殿あり、紀元二千六百年の式年を迎え、秋の祝賀祭典を行いました。その際記念事業として本殿新築の儀、村一同異議無くまとまり、壱千参百五拾円にて大工に請け負わしむ。その後、春祭までに竣功せんと職人一同督励せしに猶五百圓の増額要することとなり、総工費壱千八百五拾圓となる。
昭和16年3月29日総代村田正雄方へ仮遷座、雪降り寒し。4月7日正遷座祭雪降り寒し。8日午前三時に終了。8日午前10時慶賀祭春祭を行う。晴天。
大工 金山秀雄 石工 前田直治 氏子戸数十三戸
社掌 舩木信敏 神役 境 治一郎、平岡義治
氏子総代 前田鶴次郎、山下駒次郎 村総代 村田正雄
(本殿屋根葺替)
昭和23年10月本殿屋根破損に付き葺き替えの儀起こり、一村協議の結果銅板にて葺き替えすることに決す。3月20日夕、当村総代前田範次宅を仮殿とし仮遷座執行す。後職人の勉励に依り4月6日葺き替え終了す。依って7日、清祓式後、正遷座祭執行す。時局柄先に新制中学校新設、又橋新設の負担経費多端の為略式を以て直ちに入殿、無事終了す。時12時、小雪降り寒し。
昭和24年神明社御遷座祭
宮司 舩木信敏 総代 前田範次 職人 富山市南田町 加藤政治
工費 5万円位 神輿 村田正雄 村田亀次郎 前田宗治 中村外義
4月8日春祭 氏子総代 山下駒次郎 中村五郎右衛門 尾東栄太郎
(拝殿建替)
神明社の拝殿が経年の結果老朽化していることから氏子一同立て替えの必要を感じておりました。当部落は十二戸の集落ですが立て替え資金として月掛け一戸5千円(後に1万円に改める)を積み立てていましたが途中で二戸が他に移住され十戸で十数年に亘り積み立て、資金調達の見通しがついたので平成5年の初集会に於いて、神明社拝殿の建て替えが決まり、また部落出身の方々からのご芳志を得て4月4日の祭礼で立て替えのためのお祓いをしました。
4月7日取り壊し、6月27日地鎮祭を行い、7月24日には建立を担当された飛騨古川町の大工棟梁片町司さん他7名の方々と、村人全員が出て建前を無事終えました。
10月9日、秋の祭礼に合わせて慶賀祭を行いました。当日は快晴に恵まれ、当村の氏子全員のほか当村から他の市町村に移住していかれた方々、並びに近隣町村の有志の出席を得てお祝いしました。
(獅子舞) 村田秀幸 前田芳孝 村田貞則 村田正明 (金蔵)中村友勝 (ささら)山下富也 前田亮祐 (踊り子)村田知枝美 前田理実
神明社建設委員 総代 村田秀夫 宮総代 中村清太郎 建設委員 前田宗孝 前田賢治
伏木に伝わる古伝承
木彫りの弘法様 伏木 村田清子
私の家に一体の木像仏があります。その由来を記録しておこうと思います。それは昭和27年頃の事です、私の家に一人の修験者がよく尋ねて来られました。父亀次郎が病気で苦しんでいた頃です。その人の名は「畑佐樹仙」と云い、自分で書いた不動尊の掛け軸を入れた箱を背負い、手にはほら貝をもっておられました。私は修験者の着るだぶだぶの白の上下を身にまとい、泊まる家の前でほら貝を吹き、お経を唱えて家に入られます。村の病気を持っておられる人達は修験者の来られた事を喜び私の家に集まってきます。薬草や、相草の服用法などを教えたり、鍼や灸、マッサージなどしながら世間話をして病人を励まして下さいました。父もよくお世話になり、樹仙さんの歩いてこられた諸国の話を聞きました。樹仙さんは美濃の国で生まれ育ち、若い頃目を患い医者にかかったが目が見えなくなり大変苦しんだそうです。ある日、一人の旅人にめぐり合い、越中の大岩の不動様がとっても目に効くと教えられて富山県にやってこられました。大岩の不動様の岩穴にこもり、一、お茶は飲まない。二、生きた物は虫一匹殺さない。三、女性は持たない。巡礼で病人を助けることなど一心に願をかけたそうです。ところが「二十一日目で目が見えるようになった」と云われました。それからというものは不動様との約束を守りながら病気で苦しんでいる人達を助け、手間にお米やそば粉、野菜などいただき生計を立てておられる方でした。夏は山に籠もったり、不動様の御堂に泊まったり、時には村に来て病人を助け、大山町の方にも行かれました。ある日のこと、私の手で一体の仏像を彫りたいと申され、納屋の二階を仕事場にして七日目位で彫り上げられ、私の家に下さいました。裏には「樹仙の刀」と彫ってあります。笠をかむり錫杖をつき祈りながら修行をしておられる姿です。
年をとられ大変だとの事で、定まった修行の場所がほしいと云われ大山町の文珠寺に住むだけの家を建てられご自分の修行の場とされました。
昭和五十三年頃だったでしょうか、ご本人が病気になられ一週間でこの世を去られたと風の便りに聞きました。私の家の木像仏は代々家の宝としてお守りをしております。
カッパに教えられた妙薬
現在はダム建設によって水没しましたが、昭和25年頃迄は伏木地内より対岸の県道に通ずる吊り橋があり、これが唯一の生活道路として地域の方々に利用されておりました。幼かった私にはさだかな記憶としては残っておりませんが、何か遊び事でもしていて肩を痛めたのでしょう、母に連れられて前記の吊り橋を渡り「アイス屋」(屋号)で手当をしてもらった記憶が残っています。薄暗い家の片隅にコタツが作ってあって高齢のためか少し視力が減退し、幾分不自由気味の老婆から治療していただいた記憶を辿りながら書き残したいと思います。
昔から山下家(アイス屋)に伝わるお話しです。今の山下正彦さんで60代目と言われています。何時の頃からか「アイス屋」と呼ばれるようになったそうです。千五百年も続いた旧家であると言われています。
昔、アイス屋にお爺とお婆と一頭の馬が住んでいました。お爺が朝早く起き馬の草刈りに深い山まで出かけていきました。一荷の草を背負って帰り「どっこいしょ」と草をおろし、一服して草をやろうと馬小屋を覗いてビックリ仰天、カッパが馬に綱を掛け、外に引き出そうとしているのです。お爺は怒り、カッパを引き出し網をかけ土間の柱に縛り付けておきました。ところがカッパはだんだん弱り、ぐったりしてしまいました。お婆がご飯の用意に土間に降りた所、カッパは「キュウ、キュウ」と悲しそうな鳴き声をあげて泣いていました。お婆がカッパに「お前が悪いことをした。馬なんか引き出そうとするからや」と、手に持っていた濡れたしゃもじで、頭の皿を叩いたところ皿にしゃもじの水が入ったためか、カッパはいっぺんに元気になり綱を引き切って一目散に逃げていきました。
何日か過ぎてから、カッパはお婆の所に現れて「この間は命を助けてくれて有り難うございました」とペコンとおじぎをして帰って行きました。その後ろ姿は山伏に似ていたと伝えられています。
ある日、お婆が家の仕事で草臥れて眠り込んでしまいました。その時、夢枕に「私は飛騨から流れてきた仏像だが谷川に居るから助けに来て欲しい」と呼ぶ声にハッと我にかえり、谷川に行ったところ、川岸に木彫りの仏像が浮かんでいるのに驚きました。仏像を拾い上げ「もったいない」と大切に家に持ち帰り、お守りしていました。ある日のこと、山伏姿の行者が来られ「今夜、泊めてもらいたい。どこにでもよいから休ませて欲しい」と申されたので、お婆は優しい声で「どうぞ、どうぞ」と炉端に案内し、ご馳走を作ってもてなしました。行者さんは「あなたの家に仏像がある筈、私にお経を上げさせて下さい」と云い、お経をとなえられました。翌朝出立際に、一夜泊めていただいたお礼にと云って、草木を使っての薬の製法を教え「あなたの家が生活に困ったときにはこの薬があなた方を助けてくれますから」と云って立ち去られました。教えられた草木で作った薬を「アイス」と云い多くの人々に利用されました。山伏さんの云われたように家が困ったときには「アイス」がよく売れたそうです。その時の仏像は神明社に合祀されています。それからは、伏木部落の人達は、旧暦の5月5日になると朝飯前に一荷づつヨモギ、アオキ、スイカズラなど、それぞれの薬草を背負い、アイス屋の薬草小屋の前に置いた物です。そのお礼に菖蒲風呂に入れてもらいました。部落の人達はアイスを必要とするときは無料で貰って使用したそうです。
アイスの作り方
・ 陰干しした薬草を黒焼きにする。
・ 大きな木の臼で練りつぶす。
・ 絹ごしの篩いでふるう。
・ 薬局から「合い草」を買って入れ仕上げる。
効用
ねんざ、すんばこ、手の筋の腫れ、打撲などに効く。
利用の仕方
・ 水では薬が口の中に広がって飲みにくい為お酒で飲むと飲みやすい。
・ねんざや打撲に使うときはごはんをよく練りつぶし、アイスと酒を合わせて布に平らに塗り、痛い箇所に貼ると良く効く。