富山市吉野(旧上新川郡大沢野町)蔵王社 由緒書

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鎮 座 地
富山市吉野375番
氏子町内会
吉野部落
祭   神
安閑天皇 大山祇命 金山彦命
祭   日
春祭 4月9日
秋祭 10月9日
由緒沿革

 越中七鉱山の内の一つの吉野鉱山は天正元年(1573年)開抗し、慶長・明暦・寛文年間に掘った銀山である。吉野鉱山の守護神である。現在の社殿は昭和29年3月に神通第1ダム建設により現地に移転し、昭和48年4月1日に新築したもの。

御祭神

勾大兄天皇(まがりおおえのすめらみこと)
安閑天皇。継体天皇の第一皇子。鉱業や林業に深い知識をもつ天皇である。

大山祇命(おおやまずみのみこと)
山の神として、または古事記では国津神として八岐大蛇の段に素盞鳴尊の妻になる櫛稲田媛の父母、足名椎命・手名椎命(あしなづち・てなづち)はこの神の子と名乗っている。神名の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味となる。

金山彦命(かなやまひこのみこと)
鉱山を守り、冶金の安全をつかさどる鉱業の神。金山毘古神ともいわれる。

吉野銀山

「吉野」の地名は戦国期に見えると記録にある。吉野銀山は天正元年(1573)に発見され、越中七金山の一つと伝えられるが、その発見者、経営状況は詳らかではない。この鉱山の最盛期には山師が多く集まって千軒近い鉱夫の家があったという。鉱山の採掘及び経営方式は新川郡の六つの鉱山と大体共通していたと見て良い。銀の産出量は慶長期までは少なく、慶長期に入ると急激に発展した。慶長年間は一年間に運上銀千枚程宛上納したとある。銀一枚は六十六匁とあるから千枚では六十六貫目となる。吉野は古くから口留番所が設けられ、江戸時代は銀山と共に発展したが廃藩置県後放置されていた。この銀山を横山男爵の手によって再開されたが思わしくなく三年で廃坑となる。その後、明治三十七年(1904)に神通鉱山が再開を試みたが採算がとれず一年後廃坑となり現在に至る。抗口は昭和28年北陸電力による神一ダム完成により湖底に沈没した。村にある吉野神社「蔵王社」の祭神は「安閑天皇・大山祇命・金山彦命」の三神で吉野鉱山の守護神である。吉野集落がダム建設の為移転した際、神社も現在地に移された。

吉野点描 松下政男

 遠く飛騨の山脈を源として一路北へ流れる高原川、これが猪谷で宮川と合流して神通川となる。はるか太古の昔から流域に居住する多くの人々はこの川の恩恵を受けて生活を営んできた。この滔々と流れる聖なる川も時代の変遷に伴い水の利用も変革し、文明の灯を点す為、庵谷第一発電所の建設が明治41年に始まり同44年竣工した。取り入れ口は旧国境橋付近で沈床式であった。大正三年八月大水害があり各地で被害が続出した。この第一発電所の導水路も各所で決壊や山崩れで相当期間休止したものを契機に大正5年、同第二発電所の建設に着手し、八年六月完成した。(出力9500kw)この第二発電所の取り入れ口は吉野と対岸の片掛地内に川倉式による自然溢水堤が設けられて取水した。今まで、この急流の大きな河川をせき止める事など夢想もしなかったことが現実となり、その驚きと共に川の様相も一変した。
 古くから飛騨の山々に産する杉、檜などを富山方面へ運搬する唯一の方法として川に丸太を流し木流し人夫がその上を渡り歩き巧みに丸太を操って川下りをしていたが、この堤の現実で一度川から引き揚げ再び下流へ流すという作業となり大変だった事と思われた。この作業は髙山線の開通又はトラックなどの普及から昭和の初期でその姿を消した。更に魚類にとっても今までスムーズに溯上りできたのが、この人工的障害物に阻まれ容易に上がることが出来ず附近に滞留するようになる。特に鮎の時季になれば大群を成して上がってくるので川一面が魚で真っ黒になり浅瀬にまで押し寄せるので手づかみ或いは笠、帽子などでも容易に捕ることが出来た。川べりでその様を見るだけでも壮観だった。但しここは禁漁区で法的には捕獲は出来なかった。又上流へ魚をのぼらせるため岐阜県から監視員が常駐して見張っていた。尚、これより下流一里ほどは良好な漁場で吉野、片掛地区には多くの魚師がいて、鱒・鮎・鮭などを捕って生計を立てていた。昭和29年、現在の神一ダムの完成により川倉はその使命を十分果たし永遠にその姿を再び見せることなく静かに湖底に眠っている。往時を偲び感無量である。

28c 伝説 吉野の篭の渡し場の大蛇  吉野の篭の渡しの場所は現神一ダムの下部あたりだったと思います。私が十才の頃聞いた話です。今から百七十年位前の頃でしょうか、村には三十五、六軒位の家があった頃のお話しです。茂住の住人で柿下という方が吉野銀山の鉱夫として吉野へ稼ぎに来て定住していました。柿下という姓で名前まではわかりませんが川での漁猟が盛んなある日、柿下さんが川へ鮎か鱒かわかりませんが魚を捕りに行きました。篭の渡しの下の川原で流れをを眺め漁場をどこにしようかと川上を見たり川下を見たりして思案しておりました。虫の知らせか、ふと上流の大岩の方を見るとアーラー、恐ろしや、大きな大蛇がその岩に幾十にも巻き付いてこちらをにらみ、赤い舌をべらべらと出して形相物凄く今にも飛びかからんばかり、柿下さんは余りの恐ろしさに身体がこわばり、心臓が止まったかのように動かれず、顔は青ざめてしまいました。暫くして気を取り直し、切々家にたどり着き寝込んでしまいました。後日そのことを他人に語ったということです。本人は今まで山や川で生き物を殺生したことの祟りであると悟り、今後一切猟を止めることを決心したとのことです。現在吉野橋近くの六地蔵のそばにある舟形のお地蔵様は本人が後世までもとの願いを込めて建立したものと云われています。その後、柿下家の人々が仏心厚く「六字名号塔」を建立されました。苔むした側面に「天保十二年(1841)巳亥五月当村施主柿下源五郎と古字が残されています。

28d 28e

吉野と片掛の篭の渡し

 神通峡で一番狭い吉野橋の少し上流の大岩に篭の渡しがかかっていた。古図、神通川絵図(文化十年:1813年)に書かれている。「幅が十四間(25.5メートル)あった、明治18年に丸木橋になる」昭和28年神通第一ダム工事で掛け替えられ、更に昭和58年に現在の橋となり幅7メートル長さ123メートル、片路峡を望む絶景の場所になった。

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