- 鎮 座 地
- 中新川郡舟橋村竹内(字与左ェ門屋敷)476番地
- 氏子町内会
- 舟橋村竹内・稲荷・国重(旧上国重地区のみ)
- 祭 神
- 天照大御神
- 菊理姫神
- 倉稲魂神
- 祭 日
- 春祭 4月1日
- 秋祭 10月22日
- 由緒沿革
天照大御神 あまてらすおおみかみ
・神々の世界である高天原を統治する最高神であり太陽の神。
・竹内の鎮守・神明社の御祭神
菊理姫神 くくりひめのかみ
・ 白山比咩神社の御祭神。
・ 元来上国重鎮座の村社白山社の御祭神。昭和二年に合祀される。
倉稲魂神 うかのみたまのかみ
・ 食物の神。ことに稲の霊とされる。稲荷の神様。
・ 元来稲荷村鎮守の稲荷神社の御祭神。昭和二年に合祀される。
由緒不詳であるが天照大御神は古来現地鎮座の村社神明社の御祭神である。菊理姫命は古来舟橋村上国重158番地鎮座村社白山神社の御祭神である。倉稲魂神は古来稲荷村228番地鎮座村社稲荷神社の御祭神である。白山神社、稲荷神社は維持相立難きに付き、村社神明社へ合祀合併並びに社号改称。昭和2年11月許可を得て合祀祭を執行した。(富山県神社庁編「富山県神社誌」より)
上国重と稲荷の神社境内にある神木を神苑に移植し、神社の荘厳さ一段と増した。
天神堂古墳と神明社の由来
村の生い立ち
1、村のはじめ
景行天皇の御在位28年(西暦98年)、武内宿禰(たけのうちのすくね)に命じて北陸・東海地方の諸州の地理検察を命じた。宿禰は新川群三辺(みなべ)という所に渡って暫く留まり、ここを去るとき三男藤津を残した。藤津は父に似て才知に長じ林野を開き郷民を助け農業を教えることを自らの使命であると決意し、三辺に家を作り、壮者を集めてこれを教えた。いまだ星を仰ぎ見れる早朝に起き、みんなと共に働き、星を見て帰る日々を過ごした。こうして新田を多く開拓し稔りが豊かになったので近郷の農民が大いに喜んだ。しかしある夏に多数の農民がことごとく悪病にかかり死ぬ者が多かった。藤津は大いに之を憂い、これは炎天を侵し耕転した故であろうと考え、それ以降は午時(正午)に休ませて昼寝をさせ、未(午後2時)の刻よりまた出て働かせた。このようにしてからは病む者が少なくなり能率も大いにあがった。今でもこの地方において農夫の昼寝をする風習があるのは藤津が教えたものと伝えられている。やがて藤津は病にかかって世を去った。郷民はこれを貴び神として祭り、武弟(たけおと)神社と称した。三辺は後に武内の郷と称したと言われている。現在の竹内の神明社は立派な前方後円墳であるので、この天神堂古墳は郷民に敬慕された藤津の古墳ではないかとも思われ、その神は元の弟武神社であろうとされている。農民九郎左衛門は藤津の末裔として竹内にとどまるとあるが詳細は不明である。竹内神明社前苑の石像仏は、この藤津神を仏像化したものと住民に信ぜられている。
2、お宮にまつわる伝承
御神木の松
古墳の頂き北側に3本に分かれた幹周り7.6メートル余りの大きな松の神木があり安政4年立山付近より大熊現れ上新川郡藤木より利田村を経て稲荷村地内の神社境内に於いて利田村塚越の武内源作の母を傷つけ、さらに天神堂(竹内神明社)の大松に駆け上ったため附近の人大いに驚き弓庄組、上条組、高野組の十村をはじめ数百人の人夫を繰り出し退治した。この大熊は立山権現の化身であり其の怒りに触れ、翌安政5年2月25日の大地震を引き起こし多数の人命と財産を失ったものと郷民はかたく信じていた。この有名な松に大正9年落雷があり、中央の1本を枯らし大いに風致を損じた。残る2本も害虫に侵されしだいに弱り遂に枯れ死した。(以上 舟橋村村誌に依る)
それから間もなく宮総代が神社の屋根に積もった落葉を掃除していたところ、大松の枝下に当たる瓦に付着した小さい苔に不思議にも育っている3センチあまりの幼い松の木を発見、これを大切に育て60センチ余りに成長したので枯れ死した大松の根本に植えたところ現在6メートルあまりになっている。(昭和58年当時)
昭和58年当時、この天神堂古墳の主要な後部が県道清水堂線の拡幅工事により破壊される計画がなされ、県の埋蔵文化財センターにより調査されたところ、常願寺川以東の県内平地でただ唯一の貴重な前方後円墳であり、新川地方の広い地域を治めた有力な人の墳墓であることが立証された。ついては地元住民の強い請願により、軌道の修正を得て、境内地は保存されることとなり今日に至っている。
村名の起こり
(舟橋)村名の起こりは極めて古く、川越えに舟をつないだ橋をかけて渡渉したことにより起こる。その橋詰に村を立てたので舟橋村と申すようになったと伝えられる。また、舟橋村の舟橋を俗称して「松田」ともいう。
(竹ノ内)村名の起源は武内宿禰の武内の転化したものと伝えられ、大字竹内村、清水堂村の一部を併せて竹内という。
(稲荷)旧来、村内228番に稲荷社を鎮守として祀ったことから村名が付いたと思われる。現在は竹内神明社に合祀されている。
(上国重)昔年国重と申す鍛冶が住んでいたので村名を国重村と申し伝えられる。
国重村には上国重と下国重とあるが、国重の居住していたのは下国重村である。越中の鍛冶宇多国光の一族に宇多国重という人がいた。国重村はこの国重の居住地であろうか、或いは祇園社庄園の国重名をとったものであろうか。