むかし、日本の中でもゆうめいなあばれ川である常願寺川のちかくで、洪水による被害(ひがい)をうけそうなときに、住民にひなんを知らせるために打ちならしていたたいこを「水だいこ」とよんでいました。 現在も「常願太鼓保存会」が常願寺川流域に伝わる「水だいこ」、「ふれだいこ」として上流の村から下流の村へと川の増水を知らせたとされる太鼓の音色をイメージして演奏活動をされています。 鳴り物をつかわず、大・小の太鼓のみでえんそうするのがとくちょうです。
その後、立山の頂上にある雄山(おやま)神社への登山がさかんになると、登山者は必ず新川神社におまいりして登山の安全をおいのりし、登山安全の神さまとしてもゆうめいになっていきました。 ぐうぜんにも立山の雄山神社と新川神社の社紋(神社のご紋)は同じ神の使いである鷹の羽根をあしらった「違い鷹の羽(ちがいたかのは)」のご紋です。 立山には開山伝説があり、佐伯有頼(さえきありより)というお侍(さむらい)さんのむすこである16歳の少年が、父親が大切にしていた鷹狩り用の「白鷹(はくたか)」にみちびかれて立山をひらいた伝説によります。 立山伝説では白鷹は阿弥陀如来(あみだにょらい)という仏様のお使いだということになります。 新川神社の白鷹は面足尊・惶根尊(おもだる・かしこねのみこと)という神様が姿をかえたそんざいとして語りつがれています。
この写真は明治32年(1899)現在でもはるまつりにつかっているおみこしが新しくなったときのはるまつりの写真です。 明治時代(めいじじだい)の境内や祭のようすがわかるじゅうような写真で、新川神社でいちばん古い写真です。 写真に写っている宮司は舩木卓雄。現在の舩木信孝宮司のひいおじいさんです。 明治37年7月17日38歳でに亡くなられました。令和元年(2019)で120年たったことになります。 宮司の両脇に右大臣左大臣の随神(ずいじん)児童2名がいますが、いまとはちがい、そのとうじは白粉でお化粧(けしょう)されているのがわかりますね。 むかしは神様になるということで神さまらしくお化粧したのだとおもいます。 宮司の前には宮司さんがのるための馬がいますね。 大正5年(1916)新川神社春祭の神輿渡御祭(みこしとぎょさい)の写真です。 むかしのまちなみや、きものをきてあるいているこどものすがたにじだいをかんじます。 昭和15年9月1日、新庄町は富山市に編入されることになり、最後の春祭りということで特別(とくべつ)に新庄町の代表の役人が神様におそなえものをする春祭をおこなったときの写真です。 ひだりはじに「ドベ」がいます。 昭和15年は皇紀2600年という、初代・神武天皇(しょだい・じんむてんのう)が天皇の御位(みくらい)におつきになられて2600年のおいわいの年でした。 「浦安の舞(うらやすのまい)」という巫女が舞う新作の舞がつくられ、全国の神社でいっせいに舞ってお祝いしよう!という奉祝行事がけいかくされ、新川神社でも新庄町の女の子が舞姫(まいひめ)になり、神社のまえで舞われました。 むかしのお宮の中のようすです。お正月の厄祓(やくばらい)の時の写真です。 新川神社の古いお宮です。 昭和45年木造だった神社は棒でささえないとたおれそうになるほど古くなりましたので、火事で燃えにくい鉄筋コンクリートで作り直されることとなりました。
竣功慶賀祭には神輿渡御祭と大沢野猪谷から稚児行列・獅子舞が奉納されました。現在の舩木信孝宮司が齢6歳にして狩衣を着てお供しています。 設計・施工 盛田建設株式会社(盛田建設(株)HPより)昭和45年 公益社団法人 富山県建築士会HPより 昭和46年度第2回富山県建築賞受賞 上:平成18年当時の社殿 下:令和2年参集殿竣功後の社殿
平成28年(2016)には、新庄にひっこしして400年記念の年でした。 記念事業としておおぜいの方から寄付(きふ)をいただいて、「参集殿(さんしゅうでん)」と「駐車場(ちゅうしゃじょう)」をつくりました。 そして10月9日にはもともと新川神社があったばしょである「五本榎」まで全町内のみこしがそろって、こんごも新庄町に洪水など自然災害が無いようにみんなでおいのりのおまつりをしました。 そのあと境内では「町新庄祭騒動(まちしんじょうまつりそうどう)」という音楽・ダンス・獅子舞などいろいろな芸能(げいのう)を神様にもごらんいただきました。 新庄町はもちろん、その他おおぜいのひとびとにたのしんでもらいました。 今日(こんにち)では新庄校下をはじめ、おおぜいの人々がお正月の初もうでや4月19日の春祭り、10月19日の秋祭りにおまいりにいらっしゃいます。 むかしから新川神社はあばれ川といわれる常願寺川の洪水がおこらぬように人々がお祈りした水の神様であり、お米や農作物(のうさくもつ)がたくさんできるようにいのりをささげた豊作(ほうさく)の神様です。 そして新庄を中心としたこの近辺に住んでいる人々の守り神(まもりがみ)であります。 また、おおぜいの神様がおまつりされていますので、ご利益(りやく)もたくさんあります。 えんむすびや学問の神様、交通安全、金運、必勝、病気がなおるように、などいろいろなおねがいごとをきいていただける神様たちがいらっしゃいます。
また、新川神社は新庄小学校とはふかいかんけいがあります。 明治(めいじ)時代のはじめ、新庄小学校は新川神社の神主さんの舩木家をかりてはじまったのです。 その後、新庄城のあとちである現在の場所にあたらしくおおきな校舎をたてられたのです。 ですから、新川神社は新庄小学校が生まれた「ふるさと」といえるでしょう。 昔は新庄城の守り神、現在も新庄校下に住む人々のまもり神として新川神社の神様はいつもみなさんをみまもっていらっしゃいます。 明治のはじめ、かりの小学校だった舩木宮司家 明治42年当時の校舎 令和元年現在の校舎