新川神社の神さま

菅原道真公 すがわらのみちざねこう (天満社 てんまんしゃ)

菅原道真公

・かみなりの神さま・べんきょうの神さま・まじめでしょうじきな神さま。

もともとむかしから新川神社境内におまつりされていたちいさなお宮の神さま。
新川神社のむかしの絵地図に「天神堂 六坪(てんじんどう ろくつぼ)」というところが絵地図や古地図にかいてあります。
六坪は神社のひろさのことで、畳12枚のひろさということです。けっこうひろいですね。

境内絵図 天神堂 六坪


・みなさんがかよっている新庄小学校は、むかし新庄城というお城でしたが、 その初代新庄城主である三輪飛騨守長職(みわひだのかみながもと)という、 おとの様が新川神社の神さまににさしあげたお宝(たから)に、 土佐将監光信(とさのしょうかんみつのぶ)という、 今(令和2年:2020)から500年前にかつやくしたゆうめいな絵師(えし)が、えがいた菅原道真公の掛け軸があります。
約400年前の元和元年(1616)の洪水に流されるのをのがれた、たったひとつの物として舩木宮司さんの家に今日まで伝わるものです。
そのころから天神信仰がさかんであったとおもわれます。
現在も境内には菅原道真公がすきだった白梅・紅梅が1本ずつあり、初春には春のおとずれをしらせてくれます。

菅原道真公の掛け軸


【菅原道真(すがわらのみちざね)ってどんなひと?】

~おさないときから学問の天才だった~

菅原家(すがわらけ)は代々学問の家だったため、道真もおさないころから漢字をまなんだり詩や歌で才能(さいのう)をはっきしました。
わずか5歳で和歌をつくるなど、神童(しんどう:かみのこども)とよばれていたようです。

~学問・受験合格の神~

さらにべんきょうにはげんだ道真は、18歳という若さでむつかしい試験(しけん)に合格します。
このあたりが受験・合格祈願のご利益(りやく)がある神さまとして人気があるのでしょう。
37歳で父が亡くなると、菅原家がついできた塾の先生もするようになりました。
そこでまなんだ学者にはすぐれた人がおおく、道真は朝廷における文学文化の中心になっていったのです。

~すぐれた政治家(せいじか)としての才能(さいのう)~

 道真には物事(ものごと)をいろんな角度(かくど)から見て、てきかくにはんだんすることができました。
 天皇と臣下(しんか:天皇におつかえする人)の藤原氏のあいだでトラブルになったとき、天皇でもせっとくできなかった藤原氏に手紙をかいて、 「いまはそんなことでケンカするとあとあと藤原家がそんをしますよ」となっとくさせました。
 それ以来、天皇からおおきなしんらいをえたのですが、それがあとあと「いじめ」のげんいんともなります。

 また、唐(とう)という古代の中国に使者を送って文化をとりいれる「遣唐使(けんとうし)」の中止をていあんします。
昔は日本もまなぶことが多かったのですが、そのころは唐の国が内乱(ないらん)で危険なことと、昔の船の旅はお命がけでしたので、 わざわざ船で危険(きけん)をおかしてまで、ゆうしゅうな人を送る必要性が無くなったのでいったん中止にされました。
そのおかげで日本独自の文化をそだてていくことができました。
あんのじょう、そのあとに唐はほろびたのです。道真のみらいをよむ力がすぐれていたのです。

~京都から遠くの九州・太宰府に左遷(させん)された理由~

このような道真の出世(しゅっせ:えらくなること)は、ほかの貴族(きぞく)たちの嫉妬(しっと)のたいしょうとなりました。
そのため、藤原時平(ふじわらのときひら)を中心として菅原道真を政治(せいじ)のせかいからおい出そうとするうごきが出てきたのです。 いまでいう「イジメ」「なかまはずれ」ですね。
道真の三女は、醍醐天皇の弟・斉世親王(ときよしんのう)の妃(きさき)となっていました。
ライバルである藤原時平(ふじわらのときひら)はこれに目をつけ、 醍醐天皇に「道真は自分の義理(ぎり)の息子である斉世親王(ときよしんのう)を天皇にしようとしている」と「うそ」のつげぐちをします。
道真はそんなことはおもってもいないし、いってもいなかったのですが、このことばを信じた醍醐天皇(だいごてんのう)は、 道真を大宰府に左遷(させん:いままでの高いくらいから低いくらいにおとして、とおくへいかせること)しました。
宇多天皇にしんらいされ、すぐれた政治家としてかつやくした菅原道真は、無実の罪で大宰府に流されたあとも、衣食もままならぬきびしい生活をされられながらも国家の平安と、 自身の潔白(けっぱく)とを祈り続けたとされています。

菅原道真と藤原時平


延喜3年(903)2月25日、道真公はその清らかなご生涯(しょうがい)をとじられました。

~正直・至誠の神~

「海ならずたたへる水の底までも 清き心は月ぞてらさむ」
「海よりもさらに深い水をたたえる水底にも清ければ月が照らすように、わたしの清い心にもいつか無実の罪が晴れ、光が照らしてくれるだろう。」

道真がよんだ歌です。清く明き誠の心をしょうがいつらぬかれました。
天皇からいただいた着物を毎日ささげげもち、その恩(おん)をしのばれた道真公は、 やがて至誠(しせい:ウソやいつわりのない心)の神として信仰されるようになりました。

~都であいつぐわるいこと 道真の怨霊化(おんりょうか)~

菅原道真の死後、道真をおとしいれた人たちは次々にびょうきで死にました。
日照りがつづきき、疫病がはやり貴族たちは道真の「たたり」だと恐れました。

菅原道真の怨霊


さいごには宮中にはカミナリがおち、これらの出来事におそれおののいた醍醐天皇(だいごてんのう)は923年、 道真を元の右大臣(うだいじん:いまでいう副総理大臣)の位にもどし、道真を大宰府にとばすことを命じた文書をもやし、左遷をとり消します。
しかし異変はおさまらず、925年には次の皇太子で藤原時平の孫にあたる慶頼王(よしよりおう)が5歳で他界します。

皇族や貴族の死が続き、930年には宮中に雷が落ちます。
落雷のショックで醍醐天皇は健康をわるくし、そのまま亡くなりました。

~菅原道真が神さまになるまで~

942年、都に住む女のもとに菅原道真の霊があらわれて、
「都にいたころにこのんだ場所である右近の馬場(うこんのうまば、現在の北野)にほこらを建てて、私が立ちよることができるようにせよ」
とつげます。

女は身分がひくく、社を建てることはできませんでしたが、ここから道真を天神としてまつることがはじまりました。

その後、7歳の子供に道真の霊がとりつき、右近の馬場に社を建ててまつるよう告げたため、947年に 北野の地に神殿をたて、菅原道真を天満天神(てんまんてんじん)としてまつるようになります。

「天神」とは人々に災いを与える荒ぶる神の呼び名であり、 「天満」とは道真の「怒りが天に満ちた」というお告げにゆらいするといわれています。

最期まで忠実な家臣であった道真は現在、至誠(しせい)の神様として多くの人々から信仰されています。
怨霊として語られることもある道真ですが、今では学問の神様として広く人々に信仰されています。

「イジメ」「なかまはずれ」にされたとしても、自分の正しい心をもちつづけるといつの日かかならずそれはまわりのひとびと、世の中にみとめられ、 「イジメ」「なかまはずれ」をした人々はかならず人にしたことを自分もなんらかのかたちでうけるということを今の時代にもつたえるおはなしです。

みなさんも菅原道真のように、人にイジメられたり、なかまはずれにされたとしても、 けっしてひとを「イジメ」たり「なかまはずれ」にするような人にはならないでください。

~免罪(めんざい)の神様~

また死後、冤罪(えんざい)が認められ太政大臣の位までおくられたことから、免罪(めんざい)の神様としても知られています。

~雷神・農耕神~

雷を起こしたり、飢饉(ききん)の原因である日照りなどの自然現象をつかさどる荒ぶる神は、農民にとっても信仰して鎮めるべき存在でした。
 こうして各地に天神様をまつる社やほこらが造られ、五穀豊穣の祈願や雨ごい、水害を鎮める祭りが行われるようになりました。
 一般農民には水田耕作に必要な雨と水をもたらす雷神(天神)として、稲の実りを授ける神、めぐみの神となって、 元々の自然現象のカミナリの神さまと菅原道真は同じ雷神(かみなりのかみ)として広く全国に崇敬されていったのです。

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