新川神社のれきし
新川神社は白鳳(はくほう)3年(674)の3月19日(現在の4月19日)、かみさまのお告げによりおまつりされました。

新川神社は「いつ・どこで・だれが・どのように・おまつり」されたのか?

長い間はっきりしたことがわかりませんでした。
なぜなら、たびかさなる戦(いくさ)や洪水(こうずい)で、神社の歴史をかいた書物(しょもつ)などがなくなってしまっているからです。
富山県、特に常願寺川(じょうがんじがわ)にちかい新庄町や藤木(ふじのき)、大島(おおしま)、日俣(ひまた)などは、なんども洪水にあっているのでそのたびに田んぼや家がながされ、それはそれはたいへんなばしょでした。

地図

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日本三代実録(にほんさんだいじつろく)という日本のれきしをかいた古い本

貞観(じょうがん)9年(西れき867)に「越中国(えっちゅうのくに)」、今の富山に「新川神(にいかわのかみ)」がまつられていることがかいてありますので、新川神社ができたのはそれよりもふるいことがわかります。
日本三代実録(にほんさんだいじつろく)
日本三代実録(にほんさんだいじつろく)


「越中国」「新川神」の文字
「越中国」「新川神」の文字


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大発見。宝暦(ほうれき)3年(西れき1753)8月の記録(きろく)

ところが平成25年2月、新川神社の神職(しんしょく)である舩木家の蔵(くら)を、宮司さんが掃除(そうじ)していますと新川神社の歴史(れきし)がかかれた、ふるい文書(もんじょ)をみつけました。
これは大発見です。宝暦(ほうれき)3年(西れき1753)8月の記録(きろく)ですから、令和2年(西れき2020年)からおよそ270年まえにかかれたものです。これにより、新川神社がどのようにしておまつりされたのかがわかるようになりました。
古文書(こもんじょ)によると次のようにかいてあります。
舩木家の蔵からはっけんされた古文書(こもんじょ)
舩木家の蔵からはっけんされた古文書(こもんじょ)


 天武天皇(てんむてんのう)のじだい、白鳳元年(はくほうがんねん:西れき672年。令和2年(2020)からおよそ1,350年まえ)のお正月の1月2日に、この土地を守るお宮である大日孁社(おおひるめしゃ:太陽の女神である、「あまてらすおおみかみ」をおまつりする五本榎にあったお宮)の前にとつぜん、おじいさんとおばあさんがあらわれて、しずかにお宮の前にすわっていました。
「なにをしているのだろう、ふしぎな人たちだなぁ」とみんなが思っていたら、三日後には南の方へさっていったそうです。
そののち、3年後の白鳳(はくほう)3年(674)の3月19日にそのときのおじいさんとおばあさんたちがふたたびあらわれて、つぎのようにいったそうです。
「わしらのなまえは面足尊(おもだるのみこと)、ばあさんは惶根尊(かしこねのみこと)じゃ。
わしらは神の国である天からこの国におりてきて、あちこちあるきまわってきたところじゃ。
高い山やひくい山里や、海のちかくなどいろいろなところをまわって、よいところをさがしまわってきたのじゃ。
そしてこのきよらかなばしょは、あたりいちめんに田んぼが広がる、住みよいところじゃ。
東を見れば山の神様がいらっしゃる立山の峰(みね)がみえて、その気高(けだか)さに気分がすぅーっと良くなる、すがすがしいところじゃ。
西にはとおくになだらかな山々がおくまって見える。
南にはひろい野原がはてしなく広がり、北のほうにはおいしい魚がたくさんとれる広い海が広がっている。
私たちはこのところにおりて、こまっている人たちをすくうために、ほんらいの神のすがたをかくして、人の世の中にあらわれて、このお宮にすもうとおもう。
このところには神の山である立山連峰(たてやまれんぽう)よりきよらかな水が川となってながれてくるところだから「新川(にいかわ)」と名付けて私たちはこの新川の守り神となろう。
そしてここに住む人たちが、わがままや、じまんする気持ち、わるい心をしりぞけて、心をひとつにしてすなおなきもちでわたしたちの前でいのれば、私はその人の心にのりうつっておねがいがかなうようにしてあげようとおもう。」

と言い終えるや、パッと大きな白鷹(はくたか)にすがたをかえて東南の方へとびさっていきました。
そのあとにはりっぱな木がたくさんはえてきて神木(しんぼく)にかこまれた鎮守(ちんじゅ)の森ができたそうです。
人々はたいへんふしぎなことだと思い、すんでいる新庄の人たちに神様のことばと霊験(れいけん:神のふしぎではかりしれない力のあらわれ)をつたえて、今よりもりっぱな「お宮」をたてることにしました。
おもだるのみこと・かしこねのみこと、いざなみのみこと、あまてらすおおみかみ、この四神をおまつりして「新川四社大権現(にいかわよんしゃだいごんげん)」と名づけて新川郡(ぐん)全体をおまもりするお宮として、朝・夕におそなえ物をして、たえることなくお祭りをしてきました。
毎年3月19日(今の4月19日)には春のおまつりをおこない、とおくにすんでいる人もちかくにすんでいる人も大ぜいあつまって、神様の大きな力をさずかるためにおまいりをされました。・・・・(つづく)
立山



以上が発見された古文書(こもんじょ)にかかれていた新川神社がいつ、どのようにできたのかのおはなしです。
むかしの「いいつたえ」がのこっていてほんとうによかったと思います。
小学生のみなさんといっしょにかたりついでいきたいとおもいます。

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白鷹(はくたか)は神様が姿をかえたそんざい

新川神社の御紋(ごもん:シンボルマーク)がタカのはねをかさねたデザインなのは、この伝説からきているのだとおもいます。

白鷹(はくたか)は神様が姿をかえたそんざい なのです。
立山


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富山県ははじめ、「新川県」だった!

富山の地名で新川郡(にいかわぐん)がありますが、この地名も新川神社の神様が地名(ちめい)をつけたことがこの古文書からわかります。

上新川郡(かみにいかわぐん:大沢野町・大山町ほか)
中新川郡(なかにいかわぐん:滑川市・舟橋村・上市村・立山町ほか)
下新川郡(しもにいかわぐん:朝日町・黒部市・入善町ほか)

江戸時代から明治時代に時代が変わるときに、いままで「越の国(こしのくに)」、「越中(えっちゅう)」とよばれていた今の富山県はなんども県名がかわりました。
明治4年(1871)、「廃藩置県(はいはんちけん)」により、越中のうち旧・ 富山藩領(とやまはんりょう)は新川県に、旧・加賀藩領(かがはんりょう)は金沢県の一部となりました。
一時、越中の全部が石川県に入れられたこともあり ましたが、分県運動が起こり、明治16年5月、現在の『富山県』が生まれました。
立山


実は「富山」という地名はひかくてきあたらしい地名で、さいしょの県名は、ふるくからの地名、新川郡と新川神社の「新川」からよばれていたのです。

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