新川神社のれきし
新庄町とお城を守る新川神社の神さま

新庄小学校は新庄城(しんじょうじょう)というお城のあと

みなさんが通っている新庄小学校は新庄城(しんじょうじょう)というお城のあとにあることはしっていますね。
校歌「気高く光る立山に」の歌詞3番目にのってますものね。
「明治のはじめ 城あとを ついだ まなびや さかえきて〜」

ページトップへ

新庄がはじめて歴史書(れきししょ)にでてくるのは・・・

新庄がはじめて歴史書(れきししょ)にでてくるのは永正17年(1520年)、越後国(今の新潟県)の侍(さむらい)、長尾為景(ながおためかげ:上杉謙信の父)の父・能景(よしかげ)が富山での戦(たたか)いで亡くなったので、その仇(かたき)をうつべく、この新庄にきて、戦(いくさ)のための陣営(じんえい:戦場で、兵隊があつまって宿泊しているばしょ)をおいたとつたえられています。
校歌「気高く光る立山に」の歌詞3番目にのってますものね。
このころ、すでにはじめからむかしだれかがすんでいた建物があったのでしょう。
ですが、「お城」といえるようなりっぱな建物ではなかったのではないかとおもいます。
なぜなら、長尾為景(ながおためかげ)は新潟のさむらいですので、新潟県に春日山城(かすがやまじょう)という自分のお城があるからです。
新庄に住んでいたわけではなくて、富山の戦で死んだ自分のお父さんのかたきうちにきただけですので、元々あった建物を利用してかりにつくったお城といいますか、基地(きち)のようなものだと思われます。

ページトップへ

初代新庄城主(しょだいしんじょうじょうしゅ)は三輪飛騨守長職(みわひだのかみながもと)

そのあと、天文(てんぶん)年間(1532〜)に代々新庄に住んでいた三輪飛騨守長職(みわひだのかみながもと)という武将(ぶしょう)がお城といえるような建物をつくったといわれています。
ですから名実ともに初代新庄城主(しょだいしんじょうじょうしゅ)は三輪飛騨守長職(みわひだのかみながもと)といえるでしょう。じっさいに新庄城にすんでおられました。
 新庄城の三輪飛騨守長職(みわひだのかみながもと)さんというお殿(との)さまは、新川神社を新庄町と新庄城のまもり神として崇敬(すうけい:神様のそんざいをしんじてうやまうこと)したといわれています。
 新川神社の神様に大己貴命(おおなむちのみこと)がお祭りされていますが、この神様は奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)にお祭りされている神様です。
そして三輪(みわ)さんはこの大神神社の神様の子孫(しそん)である神主の家系ですので三輪家の産土神(うぶすなかみ:生まれた土地の神様で、三輪一族の守護神)としてねっしんにおいのりされたとつたわります。
 新庄城のお殿さまは、おいのりだけではなくて神さまにおそなえをするお米をつくる土地や、鏡(かがみ)や刀(かたな)、ゆうめいな絵かきさんがえがいた神さまの絵などのたからものをたくさん神社に奉納(ほうのう)、さしあげたそうです。たいへんりっぱでさかえた神社だったようです。

ページトップへ

◎ 新川神社のお宝とは?


(1)土佐将監光信(とさのしょうかんみつのぶ:土佐派の有名な日本画家)作・「天神さん」の掛け軸(かけじく) ※写真:舩木家にある実物の天神軸
天神軸

(2)八房(やふさ)の鏡 八角形の形をした「かがみ」 神様がおやどりになる御神体(ごしんたい)としてもつかわれる。
八房(やふさ)の鏡

(3)竜石(りゅうせき) 石に龍がすんでいるようにみえる石
竜石

(4)来 国光(らい くにみつ)作の鎧通(よろいとおし) 有名な日本刀をつくる刀の職人(しょくにん)。 鎧通(よろいとおし)は短い刀の事。
来国光作の鎧通

ページトップへ

◎ 新庄城のお殿さまたち

そのあと、新庄城のお殿さまは戦(いくさ)で勝ったお殿さまにつぎつぎと変わっていきましたが、代々のお殿さまも、新川神社の神さまをねっしんにおいのりしました。 (新庄城関係略年表:富山市HPより)

来国光作の鎧通

ページトップへ

◎ 代々の新庄城のお殿さまが、新川神社をたいせつにした理由

 今から本人たちに聞くことができないのでわかりませんが、そうぞうするには、大新川命という神さまは武力、軍事(ぐんじ)をたんとうした物部氏(もののべし)という家柄(いえがら)のご先祖(せんぞ)さまであり、 さむらいのご先祖にあたる神さまですので、代々の新庄城のお殿様(とのさま)はこの神さまにまもってもらおうと思ったのではないでしょうか。

◎ 新庄城をつくった、三輪のお殿様のご子孫(しそん)


 げんざい京都にお住まいで、画家の三輪晃久(みわ あきひさ)さんとおっしゃいます。お殿様からかぞえて15代目にあたられます。
平成11年に、ご先祖ゆかりのばしょである新庄小学校に「誕生日」という絵をプレゼントされました。
今、校長室にかざってあります。機会があれば先生に見せてもらってください。
 また、新川神社参集殿に三輪山の絵「三輪山旭日(みわやまきょくじつ)」を奉納いただきました。
約500年の時をへても新川神社と三輪家の御縁(ごえん)がつながっていることは新庄町にとってステキなことだとおもいませんか。

三輪晃久さんと「三輪山旭日(みわやまきょくじつ)」

ページトップへ

◎ なぜ、むかしの新川神社が新庄城の守り神なのに、お城からとおくはなれたばしょにあったのか?


新川神社はむかし、新庄城から少しはなれた五本榎(ごほんえのき)のあたりにありました。
新庄城と新川神社

 その理由ですが、むかしは村と村とのさかいには神さまや仏(ほとけ)さまをおまつりして、悪い神や鬼、病気や悪いことが自分たちの住む村に入ってこないようにしたからです。
 むかしは東北の方角(ほうがく)が鬼門(きもん)といって、鬼が出たり入ったりする鬼の出入り口だと言いつたえられて、みんながこわがってちかづきたくないので、神社やお寺をたてて、鬼がはいれないようにしたようです。
ですから、お城があった新庄小学校からみて東北の方向の村と村とのさかいめである五本榎あたりに、むかしの新川神社があったのだといわれています。

新庄城

新庄城の場所

新庄城縄張り図

目次へもどる
ページトップへ