◎ 新川神社はもともと今の新庄ではなく、五本榎(ごほんえのき)
国道41号線ぞい、いまの針原のちかくの五本榎あたりにあったそうです。
五本榎のどの場所がむかしの新川神社なのか?わかりませんが、たぶんむかしからの古い道のとおりにあったのではないかとおもわれます。
※五本榎のふるい道。このあたりに新川神社があったかも。
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◎ 元和元年(1615)の洪水で新川神社のすべての物が流された
江戸時代のはじめ、元和元年(げんながんねん:西暦1615年)の夏、長くつづいた大雨のせいで、あばれ川といわれる常願寺川がついに水があふれて田んぼや村など人がすんでいるところに流れ出してしまいました。
さぁたいへん。新川神社もみずびたしになり、お宮は水につかってしまって中にはいれません。
御神体(ごしんたい)やおまつりにつかう「たいこ」や「つくえ」や「はた」などもぜんぶ、ながされてしまいました。
せまりくる川の水はとどまることなくせまってきました。
新庄の人々は、はるか遠くに水で沈んでいる新川神社にむかって「いのり」をささげました。
「新川神社の神さま、おねがいです、これいじょう水が増えないように洪水を止めて下さい。洪水がとまれば、神さまをこの場所にひっこししていただいてお宮をたててお祭いたしますから、どうか助けて下さい!おねがいします!」
その結果、水はみるみるうちに無くなり、洪水が止まりました。みんな、おおよろこびで神さまにかんしゃしました。
そして神様との「やくそく」のとおり、つぎの年の元和(げんな)2年(せいれき1616年)には近所の住民(新庄・広田・嶋・針原)たちは力をあわせて今の場所、新庄におひっこしされたのであります。
それ以来、新庄町はもちろん、向新庄・荒川のほか、広田や針原の人たちも神社の祭りにはかならずあつまりにぎわいました。
そして神社がいたんでこわれたりして修理(しゅうり)するときなども近くの村から人々があつまり、協力して神社をもりたてたそうです。
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◎ すべての物が流されたなかでただひとつのこったもの「天神軸(てんじんじく)」
この元和元年(1615)の洪水で新川神社のすべての物が流されたなかでただひとつ、新川神社の舩木神主がおしよせる水の中、むがむちゅうで、がくもんの神さまである「菅原道真公(すがわらのみちざねこう)」をえがいた天神の軸(じく:絵まきもの)だけ手にもってにげました。
この天神の絵巻物(えまきもの)だけが、洪水以前から神社に伝わる物として今日でも舩木神職家に伝えられています。
お正月のときだけ、床の間にかざられます。
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