宮司です。さてさて、新庄小学校の運動会の日程の関係で田んぼ学校と神仏かふぇ。が連日開催になってしまいましたが両日とも快晴の下、1日限りの開店が36名の参加を得まして盛況の内に納める事が出来ました。神仏のお話しや一問一答で予定の2時間30分を少しオーバーしてしまいましたが。
今回は基調の話に神社・禅寺で神職・僧侶が着用する着物と使用する神仏具を紹介いたしました。今まではどちらかというと目に見えない精神や心をテーマにしていましたが6回目にして愈々「モノ」にスポットを当てたコンテンツを導入しました。神社・仏閣には普段の生活に無い「ツール」がいっぱい有りまして、皆さんから良く聴かれる質問に装束の色の意味とか用途などリクエストもありましたのでようやく「お蔵出し」というわけです。別にこだわりは無かったのですが、やはり最初から「モノ」に焦点を当てることを意識的に避けてきたような気がします。ですが、実は精神を形にして伝えてきた「三種の神器」があらわすように「目に見えぬ世界を具現化する意匠」満載の寺社は「デザインの権化」的な存在だと思います。つまりこの世で最高のデザイン・モノ・カタチが自然と共に普遍的に存在する場所なわけです。古今東西のすべての美術・芸能・絵画は宗教儀礼から始まっていますし。
ということで今回も興味深い一問一答でした。毎回なのですが私自身、もう少しこの例を出して説明できればよかったなぁ〜と後で思い出して悔しい思いをすることが必ず2、3有りますので、ここで補足をしたいと思います。
質問は「自分の現住所の氏神神社は普段は神職も常駐しない、ひっそりとした何の変哲も無いお宮で、ほとんど扉も閉めきりなのですが、果たして神様はそのようなところにもいらっしゃるのでしょうか?」
という質問でした。ご質問の意図は私自身、非常に良くわかりまして、いわゆる神職が常駐している大社や地元民の手入れが行き届いているお宮の境内はやはり神気が感じられる様な気がするのに対し、すべてでは無いですが環境によっては神気が感じられそうも無いお宮があるのも致し方が無い事と思います。それがたまたま自宅の氏神様だとしたら、産まれ育った実家の氏神なら色々と子供の頃からの思い出などがありますので、そこには幼い頃の自分の生い立ちそのものが宿っているような気がするのでどんなところであれ、想いが籠もる場所であろうかと思います。しかしながら大人になってたまたま住んだ場所、家を建てた場所、結婚で嫁いできた場所といいますのは後付け的な場所ですので「気持ちが無い=(イコール)思い出が無い」、ということを折に触れてお伺いすることがあります。正直な気持ちでしょうね。
そういう意味で、神社が宮総代会と共に請け負う「神社の尊厳の護持」ということは大事なファクターだと思います。つまり、縁があろうと無かろうと、誰もが立ち寄ると何故かしら「神様がいらっしゃる様な気がする場」として境内を整えておく、ということです。緑豊かな境内、御神木。木漏れ日がそそぐ境内。簡素で清楚な本殿。やはり自然が豊かな場所を創造して維持管理する事が神社存続の一丁目一番地で有ろうかと思います。
それも含めてですが、神職の立場でそんな場所でも神様はいつもそこにいらっしゃるんだろうか?という素朴な疑問にどう答えるか、です。
八幡大神の御託宣(ごたくせん:お告げ)の有名な1文でことわざにも成った「神は正直の頭(こうべ)に宿る」は「吾は宇佐に住ず男山に住ず正直の頭の上に住なり」から来ております。加えて「衆生の心は神のみあらかなり」(宇佐八幡宮神託)とありますように、「一切の生きとし生けるもの、あらゆる人々の心は神霊の宿り給う大切な御殿である」という事を八幡大神様がお告げされていますように、神様がいらっしゃるかどうかは既に皆さんの心の神性・または仏性が宿っているのでそれを顕現出来るかどうかはご自身次第、ということになりましょうか。神道では「正直」「素直」「清浄」「明朗」な心が鍵となっているようです。つまり神社に神様が住んでいる、というよりは心に住んでいる神様と出会う場所として神社の境内が機能しているという事ではなかろうかと思います。神社の境内で素直な自分に成れたときに鏡に映る姿が神様だとも言われますように。
同じような質問に「お盆に祖霊を自宅に招き、同時にお墓参りもしますが、お墓の祖霊は自宅にいらっしゃるのになんでお墓にお参りするの?」と対を成していたように感じました。「千の風になって」の歌詞にもありますようにお墓にはいませんよーということですが。私なりにお答えするならば、先祖の遺伝子が自分の細胞に受け継がれていますのでやはり自分自身の中におらっしゃるのだと。父親と母親のそれぞれの遺伝子を継承するということですからね。自問自答するにもそれにふさわしい場所としてお墓が有った方がアクセスしやすいのかもしれませんしね。