追悼 我が師匠「古事記に親しむ」講師 佐久間靖之先生

宮司です。我が師匠であります佐久間靖之大人が平成30年7月28日午後9時12分ご逝去されました。
日本文化興隆財団の佐久間事務局(講師とは偶然に同姓だそうです)から訃報を知らせて戴き、昨日8月1日、正午からの本葬に参列すべく日帰りで東京へ行って参りました。
師匠は日本文化興隆財団での7月20日の「古事記に親しむ」までお務めされ、その後の急逝であられました。既に不治の病(膵臓がん)を患われながらも最後まで渾身の講義をされたそうです。
あと2回を残しての帰幽で有ったそうです。享年81歳。「あとはまかせたよ」と、いうことでしょう。

師匠との出会いは神社本廳から平成21年に神社振興対策を実施するモデル神社に指定を受け、同じ時期に富山の倫理法人会のモーニングセミナーで講話をしたことがトリガーでした。倫理法人会の聴講者から「神道に関する一般人向けの勉強会はないのですか?」という問いに、確かに無いな、その要望に答えてみようと思ったのです。確かに、ピンポイントの講話やセミナーや、体験型のイベントは有りますが、「神道とはなんぞや」と正面から向き合って一般の方々にお伝えする場は無いなと。恒例の祭典の後に参列者に対しての講話や、年に数回の講演などはあるけど、定期的に継続性の有るフォーマットは有りませんでした。
400年祭の奉賛事業の時にも少なからず言われたことに「お寺さんは月に一回のお付き合いが有るけど、神社さんは正月の初詣と、何かあったときにお祓いを受けるだけだから・・・」と、普段からのお付き合いの薄さがあるということでした。
一般向けの継続性のある「神道講座」にチャレンジしてみたい、その方法、コンテンツはやはり最初は古事記を読むことだなと考えておりました。しかしながら大学で受けるような学術的講義では絶対続かない、ということも自分自身が感じておりましたのでどうしようかな〜と言う時期でありました。

神社本廳のモデル神社の研修会に上京して、今の日本文化興隆財団の会場で「古事記に親しむ」のパンフレットを手にしたのが全ての始まりです。直感でピン、と来て、研修終了後すぐさまに事務局に飛び込むようにして訪れて「古事記に親しむ」の素読本を一冊購入、夕食を宿泊ホテルの近くの蕎麦屋で吞みながら佐久間先生の「序文」を読みながら「これだー!」と。あのときの蕎麦屋で酔いながらこれをやるぞーと宝物を見つけたようなうれしさは今でも鮮明に覚えています。神様からのギフトそのものでした。あの本の「序文」は名文です。此所に我々日本人が古事記をなぜ読むのか、どのような心構えで読めば良いのか、古事記を読む、ということはどういうことなのか、すべて綴られております。この佐久間師匠が綴られた「序文」を読むと素読する意味が明確になります。
その後、財団の講義に2回、佐久間先生の地元の浅草橋の地区センターでの講義も2回ほど受講いたしました。当時は北陸新幹線開通前でしたので日帰りはなんとか出来たのですが、乗り継ぎがあり、帰りが12時頃になるので、乗り越しをしないように車掌さんに富山に着く前に寝ていたら起こして貰うようにお願いしたりしていました。やはり、ライブ感と言いますか、現場での参加者の雰囲気や客層など直に感じておきたかったのです。その後は財団の佐久間事務局にお願いしてなかなか東京へは毎回通えないので、参加費は36回分支払うので講義の録音データーを郵送して欲しいと、無理なお願いも快く受けて戴きまして今日があります。

私が開催しております「古事記に親しむ富山」でお話しする前には、今でも毎回必ず佐久間師匠の講義音源を聞いてから開催致しております。ですから佐久間師匠とは久しくお会いしていないのですが、毎月過去に録音された講義を拝聴致しておりますのでいつも身近に感じておりますし、ご逝去された今でも佐久間師匠は私の中では存在しておられます。今後も相変わらずにずーっと、繰り返し、繰り返し佐久間師匠の講義を聴いて続けていけますので、今まで通り私にとりましては古事記の師匠であられます。
なぜ、佐久間さんのお話しを聞いてから古事記に親しむに望むかと言いますと、学術的講義にないものがそこにあるからです。先祖に対する敬う心、親しみを持って、みなさんで読んでいきましょうや、という師匠の志を私が「言霊」で受け取ってそれを「伝える」ということが私の使命だと思うからです。

最近読んだ記事で「音読」には脳を活性化する効果があり、認知症予防や脳の若返り効果があると言うことです。確かに、初見のことばでしかもやまとことばという普段使い慣れないけど懐かしいような気がする古事記の言葉には大きな効果があると思います。そして大勢と心を合わせて読むことで一体感が生まれるのも良いことだそうです。皆が同じ気持ちになり心が通じ合うようになるとの事。寒中みそぎの雄たけびもそうですね。寒いので大声で気合いや和歌を謡ながら行事をしますのでやはり終わった後は初めて会った人でも兄弟のような気持ちになるのはそういうことなんだなぁと。

読んだ後が大切で、その後の日々、月間、年間を通じて祖先と繋がっていくことが「古事記に親しむ」をこの世で「体験」する事なんだと思います。昨年「古事記に親しむ旅」を開催して実際に現地に参拝旅行を実施致しましたのも、読んだ体験の後に現地で古に想いをはせて現代にまで繋がっているんだと言うことを実感してみたかったからです。

今(戦後)の学問は過去の歴史の否定から始まります。歴史を疑って新たなる真実を見つけようとする学問的な見地は学問というものがそれが目的なのであれば私の如きはそれに意見することは僭越でしょう。ですが、今の現状を見ますと、世間に流れる書籍やテレビ、報道番組など様々な情報の坩堝から、無垢な一般の国民が日本の歴史や神話を紐解きたいと思い、読めば読むほど混乱して判らなくなっている様な現状を見ますと、やはり原典を素直に読み、全てを受け入れて親しむ、というスタンスの講義を拓かれた佐久間師匠は偉大です。しかも、「古事記に親しむ」という素読専門の書物を製作されたこと。これが素晴らしい事です。大きな活字で全文にふりがなが振ってあるので、小学生でも読めます。行間、スペースが有りますので、講義内容のメモは素読本に書き込めますのでこれ一冊有れば重宝します。

来年より「日本書紀に親しむ」を開催するにあたり、佐久間師匠に開催要項とお手紙をお送りして「古事記に親しむ」コンセプトでチャレンジします事のご報告をしようと思っていました矢先の事でした。喪主の奥方に郵送するはずだった「日本書紀に親しむ」のリーフレットと弔文に改めました手紙をお渡ししました。手紙の末文は

「来年から『日本書紀に親しむ』を始めます 盛会になります様に八百万の神達共に高天原よりご指導下さいませ では又お会いできる日まで お元気でお過ごし下さい」

 

棺桶には「古事記に親しむ」の素読本がお手元に開かれたままうつぶせに納められておりました。