明治天皇と新庄町

現在は金岡邸。

明治天皇御巡幸史跡の標柱。中には拝観料200円で見学できます。子供は無料。

禰宜です。日枝神社の秋祭りの奉仕などでしばらくでした。さて、きょうは以前から触れたいと思っていたことを書こうと思います。実は私、大学生時代の4年間は明治神宮の神苑の中で寝泊まりをしておりました。神職の資格を取るために渋谷の國學院大學に昼間通学の傍ら、夕方からは明治神宮の研修生として夜間勤務に従事しておりましたので、寝る場所は1週間交代で明治神宮のあのだだっ広い境内の施設、たとえば社務所、会館、宝物殿、武道場、本殿のすぐ隣の御垣内など、施設の夜警を仕事としてジプシーのように森の中を転々とねぐらを変えて暮らしていました。いわば東京での4年間は明治神宮の鎮守の杜で育ったようなもんです。同じような神職師弟が多数全国から修行に来ておりまして、ようは神職の丁稚制度のようなものですな。そして本年は古事記撰上1300年と明治天皇が神去られまして100年という節目を迎えるにあたって、何かと何かが重なり合うような気がしております

先だって、毎年富山県神社庁雅楽部が指導を受けている明治神宮の神職に舞いのご指導をいただきに東京は明治神宮まで出稽古に行って参りました。折しも明治天皇100年祭を終えられた後でしたので、休憩所の宝物展示場に特別展として明治天皇百年祭・乃木神社御祭神百年祭記念展「明治天皇と乃木大将」が開催されていまして、昼食の後、明治神宮の神主さんが「見ていくか?」ということで拝観いたしまして、大変感銘を受けて参りました。明治天皇100年、すなわち乃木大将100年ですから。国難にあたって君と臣下の強い絆が国を護ってきたお国柄であることをあらためて感じ入りました。

と、いうことで今日の本題です。実は私たちが住むこの新庄町に明治天皇様が御巡幸の際、小休止された場所があることをご存じでしょうか。旧街道の通る町ですので、今日でも交通の要所には変わらない我が町であるがゆえにの事と思います。
新庄町史によりますと、明治11年(1878)9月30日に今の金岡邸である草野耕多邸にて御小休されたとあります。今日からさかのぼりますこと、134年と6日前ですね。新庄町史にはその時の新庄町のみなさんの様子など書かれていないので、はなにか逸話がありましたら知りたいです。情報ありましたらお知らせください。

私が大学時代に育った代々木の杜の御祭神・明治天皇様が昔に私の町に来られたと思うと何か親近感と因縁を感じずにいられません。その御縁は今でも続きまして、年に一度、代々木の杜で舞の稽古に励んでおるわけでしてその当時は思いもよりませんでしたが、こうして何かに導かれながら過ごす日々が、この年齢になってようやく有り難い事だと思えるようになりました。
いつか、「明治天皇と新庄町」というテーマで勉強会などやったら良いのでは無いかと考えています。古事記の編纂も諸外国との緊張状態から国内の中央集権体制を強化するために日本書紀と併せて編纂をされたものとの解釈もされています。明治時代はまさに諸外国と対等に渡り合うための近代化の時代でした、物心共に。諸外国と渡り合うためには国内をまとめなければ太刀打ちできません。何時の時代もそういう時期が来る事を否が応でも悟らざるを得ない昨今です。
近年の書籍、学者は口を揃えて「天皇の権威と正当性を説くための〜」などと一通りの言い方が目立つのですが、その前後に歴史の動きが有って、諸外国と対峙するために国内統率の必要性があっての「古事記」「日本書紀」の編纂であり、「五箇条の御誓文」「教育勅語」であったということではないかとおもうのですが。

そういう意味で、近隣国家との課題が山積している近況から、もう一度我々の祖先がどのようにして国づくりを進めてきたかに思いを馳せる秋であります。