もう初夏という感じの天気が続きますね。禰宜です。明日から日枝神社に泊まり込みですので、まとめてご報告しておきます。
鷹乃羽雅楽会も待望の直垂が納品され、来月にはとある祝賀会のオープニングの清興を務めることになりましたー、パチパチパチ。
なんと、装束を揃えたとたんに営業の話。ナイスタイミング。演奏依頼があっても衣装が無かったら様になりませんからね。
鷹乃羽雅楽会、対外的な公式デビューということになりますね。練習もはりきっていきましょう!
さて、古事記も仁徳天皇の御代を終えて、履中天皇、反正天皇、允恭天皇の御時世を素読いたしました。
偉大な仁徳天皇の後ですから、あまり目立たないのかなと思いきや、結構面白いところです。履中天皇は仁徳天皇の御長男ですが、あるいみでやはり大物ですな。実の弟である墨之江中王との間に皇位継承争いが起こるのですがなんといいましょうか、酔っぱらって寝ているときに御殿に火を付けられて臣下に寝たまま担ぎ出されて馬で逃げて、酔いが覚めて「あれっここはどこ?」の問いに臣下が「墨之江中王が御殿に火を付けて殺されそうになったので逃げてきたのです」と答えますと「なんだ、そうか。野宿することになるんだったらテントぐらい持ってこればよかったのに、ここで寝ることになるんならねぇ」と御歌を詠まれたということです。すばらしい。どんな状況でもユーモアを忘れない履中天皇を見倣いたいですな。他にも允恭天皇の御代は氏姓の虚偽を正す為に探湯(くがたち)をおこなうことが記されています。ご存じですか?くがたち。神前に熱湯を炊いた鍋を備え付けて、いまでいう裁判、嘘発見機みたいなもので、ある事に関して正直者は熱湯の鍋に両手を入れても火傷はせず、嘘つきは大やけどをする、というすごい嘘発見機です。応神天皇の御代にも武内宿禰兄弟の争いで正邪判定に
おこなわれました。ひとつの「うけひ」ですね。『そうならばこうなる、そう でないならば、こうなる』とあらかじめ宣言を行い、そのどちらが起こるかによって吉凶を占う事ですね。本当に古事記は面白い読み物ですね、古代日本人の興味深い事柄がたくさん出てきます。最後には允恭天皇の皇子、皇女の悲恋の話で締めました。衣通郎女(そとおしのいらつめ)は数ある古典の中でも絶世の美女といいますか、身の光が着物をすり抜けてあらわれるほどの美女だったとか。今で言う「オーラ」が強い方でしょうね。天照大御神の美しさを日本書紀は「光華明彩(ひかりうるわしく)、六合(あめつち)の内に照り徹らせり。」と表現しましたが
それに通じる程魅力的な御方だったのでしょう、それ故に同母兄妹のタブーを犯してでもその本懐をまっとうされて、最後には伊予の湯、道後温泉のあたりでしょうか、心中されるわけです。ですが古事記の語り口調は淡々と、そしてどこかに肉親の情といいますか、惻隠の情といいますか、「もののあわれ」を感じるところでございました。