舩木家のお蔵出し 其の弐

舩木家のお蔵出し 其の弐 30年分の埃をお清め中。大変やぞー、ほんまに。

禰宜です。寒い日と暖かい日が混じりながらの日々ですが、皆さんお元気でしょうか。私は祈年祭、鎮火祭、臨時祭(地鎮祭などのお祓い)の合間をぬって子供部屋の整備と蔵の清掃の続き、総代会、奉賛会の準備などやることが山積しているなかにも元気にしております。もうすぐ鷹乃羽雅楽会も始動しますので、楽しみですね。今月は2月17日と24日、午後7時からになります。まさか雪は積もらんと思いますがどうでしょうか。

さて、お蔵出しのお披露目第2弾です。当然、後日改めまして詳細なる分析、読み下し分など整理して公開しますが、多分今回の蔵整理で一番の大収穫の文書です。これを探していたのです。懸命に図書館の史料を探しておりましたが、当然と言えば当然ですが家にありました。江戸時代末期に編纂されていた「越中志徴」という富山の地方に伝わる逸話、伝説、言い伝えを収めた本に新川神社の史料らしき物を見て書かれているようでしたのでこの由緒書きを探していたのです。顧みすれば、大学4年生の卒業論文の調査で、この本の記述で、なにか気持ちに引っかかる事がずぅーっとありまして、それの究明に動いておりましたので、感慨ひとしおです。若い頃、立山信仰と新川神社の関わりをテーマに卒論論文を書きましたのでそれの続きですね。その当時思ったのは学者さんの論文は歴史的な事柄や見地からすると事実なのかも知れませんが、どうも読めば読むほどわけがわからなくなっていった思い出があります。何か重要なこと、本質的なことが抜けているような気がしましたけれども、論文は論文ですので、私なりに基本的な知識を入れるという意味では重要な作業でしたが、腑に落ちないところがずぅーっとくすぶっていたことは事実です。その頃、なんの確信も無いのですが、「いや、これは違う」とう違和感が直感的にありまして、それは今でも変わらないのです。なにか、ご先祖様が背中を押していらっしゃるような気もします。では続きはいずれまた。

現在調査中ですので現段階で一番古い由緒書。いわゆる御鎮座縁起ですね。私は史実として正しいか正しくないかの検証も必要ですがそれを踏まえて、伝わってきた事柄をそのまま伝えていくこと、そしてそこに先祖が神様の事をどう思って来たかを精神性や想像力を読み取ることが本質ではなかろうかとこの頃特に思います。

上の前ページからですが「白鳳三年(674)三月十九日に面足惶根尊(おもだる・かしこねのみこと)が当国に降臨して、このページの三行目からに「神の山の清き流れの灑(そそ)ぐ、故にこのところを新川と号して、この処の守護神と成り、人民が慢心を退けて一つ心を真っ直ぐにして我の御前に一礼成せば願いかなわぬことは無しと言い終えて、白鷹と成って巽(東南)の方へ飛び去っていった云々・・」と云った内容が書いてあるような気がします。新川の地名の縁起譚ですね。読み方、いい加減ですみません、漢文、苦手でしたので。後日ちゃんとした書き下し文をお見せできるようにいたします。

面足尊・惶根尊・伊弉諾尊・天照大神を新川四社大権現と号して新川郡の守護惣社と崇められたとの御祭神縁起が記されています。原本を見たのは初めてです。これが見たかったんですよ、孫引きでは無くて原典に当たる事にこだわりを持っていましたのでうれしいです。

宝永三年(1706)八月神吉日 神主 田宮丹後守藤原宜命(花押) 今のところ、一番古いと思われる縁起古文書です。まだまだ検証作業を進めていかなければいけませんが。神主家の系譜も出てきましたので、いずれ公開します。