新川神社の歴史は誠に古いのであります。 日本三代実録 と申します国史に「清和天皇(56代)の貞観九年(西暦867)二月二十七日丁酉、越中国正五位大新川神に従四位下を授く」とあり、新川郡の郡名は御祭神である「大新川命」の御神名から起こったと伝承され、永年人々の崇敬を受けて参りました。 その昔、本社神域は現在の場所より約2キロ北東方向の北陸街道(現在の国道41号線)の沿道である五本榎(ごほんえのき)辺りの 志摩の郷(嶋)八嶋野 に鎮座したしておりました。
五本榎周辺
宮司家所蔵の 宝永三年(一七〇六)新川四社大権現由来書 が伝える伝説によれば、「新庄村は白鳳三年(673)に老人夫婦顕れ、『我は 面足尊(おもだるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと) の化身なり、この地の氏神と成るべし。』と申すや霊験を現され、白鷹となり飛び去っていったという。それよりこの地を新庄村と唱えるようになった」と記してあります。今日でも新川神社の社紋は鷹の羽を意匠した「 違い鷹の羽(は) 」であります。
累代新庄に住した越中の土豪である 三輪飛騨守長職(ながもと) は天文年間(1532〜)に 新庄城 (別名、太田新城・辰城)を築城し、城下の鎮守神として産土神・氏神である神々をまつり、社領・神器・ 神宝 等の寄進が盛んであったと伝えられています。 天文19年、三輪氏と争った 轡田備後守 が城主となった後も引き続き多数の神宝・神領を寄進され益々崇敬が篤かったと伝えられています。累代新庄に居した新庄城主は城下の守護神として篤く崇敬されました。 しかしながら古来より交通の要所でもある新庄の地は戦国の時代には戦略上も重要な拠点でもあり、度重なる戦火により新庄城は攻められては落城し、城主は幾度も入れ替わりました。新庄城の運命と共に神社の社領・神器・神宝も失われ衰退の一途をたどり、その縁起、古文書などのすべて灰と化し今日に伝わらないことは遺憾の極みであり、惜しむところであります。
奇しくもこの新庄城が一国一城令により廃城となった元和元年(1615)の夏、新庄城と運命を共にするかの如く常願寺川の洪水のため新川神社の社殿、神宝、神器はすべて押し流されてしまいました。
民家も多くつぶされていくこの時、氏子(住民)たちは必死の思いで今の境内地に集まり、遙かに新川大権現に向かい、 「このところを限界として洪水を留めてくれるのであれば神殿をここに遷しまつりましょう」 と誓を立て祈願いたしましたら不思議にも水はたちまち減退していったので一同歓喜いたしました。そして誓いを立てたとおりに、翌年の元和二年には附近の住民(新庄・広田・嶋・針原)達は力を併せて新庄城外の高台である現在地に遷座されたのであります。この地はその当時はずいぶん高台であったようですが 安政5年の地震後の大洪水 の土砂にて廻りが埋まり、自然に現在のような平地になったのであります。
新庄遷座以来、数十回の洪水があったのですが社地には被害はなく、元和以来の境内として氏子の皆さんには水神として尊崇され、拝殿の桁に大きな 木彫りの龍神 が祀られ、水噴き龍として畏敬されています。
(安政の洪水絵地図:滑川市立博物館蔵) この絵図「安政五年常願寺川非常洪水山里変地之模様見取図(里方図)」の茶色部分が4月26日に泥が入った地域を表します。町新庄が半分泥で覆われていることが解ります。新庄新町が濁流の瀬先にあたり、最も凄惨を極めたと「新庄史稿」が伝えることがこの絵地図からも読み取れます。新川神社の境内地は赤い○の「町新庄」の右側、赤く太い線が北陸道ですのでちょうど曲がり角附近に位置すると推測できます。このことから、安政5年の時は土砂は流れてきたけれども、境内地は高台にて社殿は被災を免れたことが解ります。
今日では元和の洪水以前の物として 天神掛け軸一幅 のみが神職家に伝えられています。
元和の洪水で中川ができてその東に向新庄村が出来、明暦二年(1656)の洪水に出来た川筋を荒川といい、その川の西に荒川村が出来ました。元々一つの新庄町だったのですが洪水の川筋でそれぞれ町新庄・向新庄・荒川村に分かれ「新庄三ヶ」と呼ばれ、今日に至ります。
(越中古絵図:「越中旧事記」富山県立図書館所蔵) 荒川を「新川」と記した、貴重な絵図。元は新川神社の傍を流れるので川筋を「新川」または「新庄川」と呼んだが、数々の洪水を以て田畑を荒らすので「荒川」と名付けたという。
古来より新川一郡の総社でありますので、新庄に鎮座以来も近郷の住民が春秋の祭礼には集い賑わいました。また社殿の修理の節には旧例により旧の島郷の郷民である向新庄村、荒川村の新庄三カ村はもちろんですが元の社地に近かった広田・針原の両郷からもお手伝いされ、多いに社頭を盛り立ててこられました。
この行事は古来宮中にて正月初卯の日、邪気祓いとして行われたもので、新川神社では天保四年(1832)まで行われていました。 絵馬に描かれている卯杖(うづえ)とは、桃の木と五色の組紐でつくった杖で邪を祓う力がこもっているとされ、災いを避けることができるとされています。この奉納額は弘化四年(一八四七)に富山藩の画家・ 山下守胤(やましたもりたね) の描いたものです。 【写真】 卯杖・卯槌(うづえ・うづち) 祝の額
また、毎年4月19日に斎行される春祭には神輿渡御があり、その先導役として新庄では「 どべ 」と呼ばれる露払いの神が有名です。「どべ」という名称は新庄の民衆がいつのまにか呼ぶようになった固有の呼称で、他の地方では「どべ」とは呼びません。本来は古事記・日本書紀の神話で天孫降臨の場面に登場する伊勢を所領していた国津神である 猿田彦神(さるたひこのかみ) であります。 新川神社の猿田彦神である「どべ」は、新庄独自の衣装をまといます。 その姿は武士の甲冑にわらじをはき、怖面の赤色の面を付け、大頭巾で長髪を結わえた姿で大長刀を振り回して露払いをおこなう姿を一目見るため近郷近在より大勢の人が訪れます。なかでも子どもたちはどべに追われて逃げ、捕まえられてその恐ろしさからワッと泣き出す場面もあり、たいそう賑やかなお祭であります。昔からどべに頭を撫でられるとできものが出来ないといわれ、嫌がる子供をどべに差し出す母親の姿もみられ、県内でも奇祭として知られています。
時は流れて江戸時代中期より立山登拝が盛んになると 立山権現社 (現在の雄山神社)の 御前立社 として新川一郡の崇敬の的となり、立山参詣者は必ず新川神社に参詣したものであります。昔は元服登拝と申して「越中男児は15歳になるまでに自力で山頂の雄山神社に詣でなければ一人前と見なされない」という成人通過儀礼としての習慣があり青年達は隊を組み、赤字に白の染め抜きの流旗を押し立てて新川権現(新川神社)に参拝し、宮から水路の堤防沿いに上滝に至り常願寺川を渡り芦峅寺を経て立山頂上雄山神社峯本社に参詣し、帰途必ず新川神社に御礼参りをし、村人達は無事参詣を祝いその労をねぎらって酒を酌み交わし成人を祝ったものであります。 今日まで県下の小中学校で行われる立山登山には、この精神と伝統は継承されているのです。 元和元年に廃城になった新庄城趾は前田藩主により御陣屋が修造され田畑倉庫が置かれたこともあったがいつしか荒廃し、畑地に開拓されました。 明治になり学制が発令され、寺子屋などで読み書きを教えていた新庄にも小学校が設置されることになりましたが、なにぶんすぐに大きな校舎が準備できるはずが無く、とりあえずは正式な建物が出来るまでの間、町新庄村郷社新川神社神職舩木守人宅を借り受け開設されました。後に新庄城趾に広大な運動場と共に立派な校舎が建てられ今日に至ります。いわば新川神社は新庄小学校の始まりの地であります。
かくして永い歴史を有する当社は元来新庄城の 鬼門 に鎮座し城下を守護したことから 鬼門除け の厄除の御利益がある神社として今日まで厄年に当たる人々は正月に多数お祓いを受けられ、無病息災を祈られます。立山登拝が盛んになると常願寺川の水源地である立山を仰ぐ登山安全祈願の社として尊崇され、暴れ川の水を鎮める水神として歴代の用水組合を初めとする農耕に従事される新庄の人々は五穀豊穣を祈り篤く崇敬されております。 時代は明治、大正、昭和、平成と移り変わり、戦中戦後の国難を経て国の復興・高度成長期と共に新庄の町も様変わりをしていきました。昔からの土地柄と申しますか、各方面に繋がる街道が交差する交通の要所という利点が更に発展し、新しい道として旧国道8号線、当時は産業道路とよばれた草島線が敷かれ、広大な農耕地が広がる郊外地ということから機械工業団地、問屋センターなどが近隣に誘致され多くの企業が新庄地内で事業をされてきました。広大な水田は新興住宅地へと姿を変えていきました。 昭和の時代から懸案でありました人口の増加から全国の中でも指折りのマンモス校下の分校が長年の審議を経て平成22年4月1日、新庄北小学校が新設開校されました。常願寺川の水害で悩まされた校外の農耕地は今では農業、工業、商業、新興住宅地と多くの人達が集う複合環境の市街地へと発展して参りました。 しかしながら今日の新庄の繁栄のいしずえには、四百年前に被災された先祖がこの地に留まり、流されてきた巨石を取り除き、鍬を振るい水田を再び開き、この土地に汗と血を染みこませて復興されてきた軌跡の上に成り立っていることを我々は忘れてはなりません。我々はその土地の上に住まいを建てさせていただいている、その土地の上で事業をさせていただいている、という事なのです。
近年、大きくは世界的に地球環境問題や地球温暖化に代表される気候の変化、度重なる未曾有の自然災害は、物質文明と合理主義に慣れすぎた現代社会の構造に波紋を投げかけているように感じられます。 社会の構造は農耕社会から機械工業、情報化社会へと変化し、その代償として過去の伝統と歴史、または自然を破壊して発展してきた近代の我々の社会に何かを問いかけているようにも感じられます。精神的な支柱としての「やまとごころ」や、日本人としての道徳を伝える「教育勅語」は公には封印され、先人が伝えてきた日本人独自の精神性の喪失が社会的に問われています。 このように永く久しい時を経て今、来る平成28年(2016)は新庄に遷座された元和2年(1616)より400年という歴史的な節目を迎えました。このような思いを若い世代と後世に伝えるためにも、新庄の先人達が住民の心の拠り所である新川神社の再興をこころざし、現在地に遷座を成し遂げられたその御苦労を偲び、今私たちが住む地域社会の繁栄と平安無事を感謝する「新川神社新庄御鎮座四百年祭」と、記念事業を盛大に執り行うことができました。 「新川神社新庄御鎮座四百年祭の様子」多数の写真を公開しております。
常願寺川の氾濫に悩まされてきた新庄町。四百年前に被災された先祖が被災間もない翌年には新川神社を復興し、心の拠り所として立ち上がってきた不屈の精神を、現在その土地の上に暮らすわれわれが「我が心」として継承して想いを馳せる事が、平成23年3月11日未曾有の天災を被った我が国の復興に向けて魂を奮い立たせる前向きな力になるのではないでしょうか。 「温故知新」。故きをたずねて新しきを知る。 新川神社の歴史は誠に古く、そして現在を通じて未来へと続いて行くのです。